In Depth

Essay
文=樋口朋子

 

ミヤギフトシ:ことばとイメージの行方

 

はじめに

思いを形付けることば、意に反してでも出てくることば、喉を伝わり空気に触れることのないことば。そして、目に焼き付いて離れないイメージ、夢にまで出てくる風景、不思議と懐かしいと感じる光景…。それらは溢れるように目の前に現れては、どこにも留まることなく消えていく。

ミヤギフトシは、自身の体験や記憶から、国籍や人種、アイデンティティといった主題に対し、映像やオブジェ、写真、テキストなど多様な形態で作品を発表する日本の現代美術作家だ。

彼はそのような言葉とイメージを扱いながら、物語を紡ぎ出していく。それは消えてしまいそうな小さなストーリーから、個人の奥に秘められた思いまで。それらに形を与え、まるで言葉を事象からすくいだすように、作品としてもう一度この世に投げ出す。

今回、GAでは上記したミヤギフトシ氏をお迎えし、新しく文章とそれに付随する写真作品をご寄稿いただいた。ある一つのストーリーから、ことばとイメージの行方を紐解いていただきたい。

[東京藝術大学 大学院国際芸術創造研究科/樋口朋子]

 

コカコーラとバカルディのクバ・リブレ

ミヤギフトシ

2018年、ハバナにあるウィフレド・ラム現代美術センターとSpiral(東京)にて開催されたグループ展『近くへの遠回り―日本・キューバ現代美術展』に参加した。そのリサーチのため、前年11月に私は初めてキューバを訪ねた。それまでキューバに来るなんてことは考えてもおらず、何も知らないに等しい国だった。

第二次世界大戦中に建てられたという日系人収容所、その収容所がかつて存在し現在も沖縄系の人々が住むという青年の島(フベントゥド島)、またはかつてアメリカとの関係の中で生まれたカクテル、クバ・リブレのことなど、現地でリサーチしたいことはいくつかあった。

 

撮影:ミヤギフトシ

 

 

渡航前、日本側のキュレーターと話して、2013年に発表した「オーシャン・ビュー・リゾート」を主軸に、今回のリサーチを基にした新作を加えて新たなインスタレーションを構成しようと考えていた。「オーシャン・ビュー・リゾート」は、生まれ育った沖縄の島を訪ねた「僕」が、幼馴染のYに浜辺で再会するところから始まる。一方通行だった思春期の関係が回想されながら、語りはやがてYの祖父へと移り変わり、終戦直後、その島に海の向こうからやってきたアメリカ兵と、彼らが建てた収容所に入った日本兵の、刹那的な関係が明らかになってゆく。ハバナもまた海に面した街であり、海の向こうにはアメリカがある。多くの人々が様々な理由で海を越えた。または越えようとした。作品風景とその海の風景は、どこか重なるのではないか。そんな風に考えていた。

 

《The Ocean View Resort》(2013)

 

キューバはインターネット環境が整備途上ということもあり、事前に現地のキュレーターにvimeoのリンクを送っても視聴することはほぼ不可能ということで、私はいくつかの映像作品を現地で直接見せることになっていた。観た作品の中でキュレーターがもっとも反応したのは、「オーシャン・ビュー・リゾート」ではなく、2015年に発表した「ロマン派の音楽」だった。海によって隔てられた存在、海向こうのアメリカは、繰り返し扱われてきたテーマだ、と彼女は言う。なるほど、確かに安直な発想だったかもしれない。キュレーターが惹かれていたのは、「ロマン派の音楽」で引用したキューバ出身のピアニスト、ホルヘ・ボレットだった。彼のことを知らない、と彼女は言った。

「ロマン派の音楽」は、ベトナム戦争時代の沖縄で時間を共にした沖縄人ピアニストとヴァイオリン弾きでもある米兵の関係を描いた2チャンネルの映像作品だ。沖縄人ピアニストと米兵それぞれの立場から、かつて沖縄県北中城にあったオキナワ・ヒルトンでの出会い、その後の交流を回想する。70年代、ベトナムへと向かう多くの米兵が駐留していた沖縄でふたりは映画を観て、音楽を聴き、酒を飲み交わし親密な関係を育んでゆくものの、ヴァイオリン弾きはベトナムへと旅立ち、その後ふたりが再会することはない。やがて、ヴァイオリン弾きがゲイであったこと、彼がベトナムでの経験により精神的に病んでしまったことが、彼の息子の語りによって明らかになる。

沖縄人と出会った夜、ヒルトンのバーで米兵が弾いていたのが、バッハのシャコンヌだ。作中、ふたりの物語に加えて、バッハの「シャコンヌ」にまつわる歴史の断片が挿入される。シャコンヌをはじめとするバッハの音楽は彼の死後忘れられ、ロマン派の時代、メンデルスゾーンによって再発見され、ブラームスやブゾーニらがピアノ版を編曲している。一度忘れられて、誰かによって発掘され、変化しつつ受容されてゆくひとつの音楽が、誰に語られることなく埋もれてゆくアメリカ兵と沖縄人の物語に重ねられる。

 

《A Romantic Composition》(2015)

 

この国から出ていった人々のことを知らない、とキューバのキュレーターは言っていた。出ていった人たちについての情報はほとんど入ってこない、と。キューバの歴史を遡ってみると、スペインからの独立を目指し1800年台後半のキューバ独立戦争、米国介入による米西戦争を経て1898年に独立。クバ・リブレ(=Cuba Libre、キューバの自由)もこの年にアメリカ人将校によって考案されたらしい。アメリカから持ち込まれたコカコーラと、バカルディのラムをミックスして作られた。しかし、1900年代中頃革命政権が樹立、ソ連に接近し社会主義国となる。1961年にアメリカはキューバとの国交を断絶、62年に輸出入も禁止した。

 

撮影:ミヤギフトシ

 

キューバ滞在中、何度かクバ・リブレを飲む機会があった。たまたまかもしれないけれど、味はどこで飲んでもほぼ一緒だった。私がそれまで日本やアメリカで飲んできていたものとは違い、甘さが強く炭酸が弱いクバ・リブレだった。なぜだろう、と思っていたら、ある時バーテンダーがそれを作っているところを見て、使われているのが国営企業のコーラだと知る。当たり前のことだったが、アメリカとの貿易が断たれコカコーラも入ってこなくなった。バカルディ社も革命後に本社をキューバ国外に移したようで、使われているラムはハバナ・クラブだった。

 

撮影:ミヤギフトシ

 

2014年末、アメリカとキューバの国交が回復した。それにより、アメリカの資本や商品が入り始めているようだ。クラシックカーばかりと思い浮かべていたけれど、街にはモダンなデザインの車も多く、利用したバイクタクシーの運転手はApple WatchとAirPodsをつけていた。いくつかのレストランではコカコーラも見かけたが、聞いてみるとメキシコから輸入しているのだという。そのうちに、アメリカのコカコーラで作られたクバ・リブレも出てくるのだろうか。

「ロマン派の音楽」で引用されているホルヘ・ボレットは1914年にハバナで生まれ、米国に留学し音楽学校に通う。42年に米軍入隊、太平洋戦後GHQの一員として日本にやってきた。彼は米兵向けの慰問演奏なども行い、日比谷のアーニー・パイル劇場ではオペレッタ『ミカド』の指揮もした。しかし、ピアニストとして彼が認められるのは、まだずっと先のことだった。アーニー・パイル劇場はアメリカ軍が接収したもので、かつて帝国劇場と呼ばれていた。

1974年にボレットはブゾーニ編曲のシャコンヌをカーネギーホールで演奏し、60歳になろうとしていた彼はアメリカで名声を得ることとなる。しかし、その時キューバとの国交は断絶されていた。ボレットの成功を知るキューバの人びとはどれほどいただろうか。

キューバ滞在も残りわずかになったある日、日系人連絡会の会長と会う機会があった。今回の滞在では行けなかった、青年の島にかつてあったという収容所のことを聞いてみたかった。彼の父親も、そこに収容されていたという。しかし父親を始め、多くの収容者たちは当時のことを語ることはなく、文献として彼らの経験が残されているものはほとんどないようだ。しかし、何かの参考になればと収容者リストのコピーを渡してくれた。出身地や収容棟などが記された簡潔なものだった。未収容者としてリストアップされた4名のうち、1名が「行方不明、戦後現れる」、2名が「雇主の保証」、もう3名が「老齢のため」。簡略な文字列の向こうにあるはずの物語を、私に知るすべはない。

 

撮影:ミヤギフトシ

 

「ロマン派の音楽」の語りは数人のインタビューを基にしているが、そこで語られる関係はフィクションだ。あのような同性間の関係がかつての沖縄に存在したのか、歴史の表面で語られることはない。90年代、ティーンエイジャーだった私にとって沖縄は生きづらい場所だった。米軍基地という男性的な存在も大きく関与していたはずだ。そんな土地で、男性同士の物語の可能性を物語として生み出したい。そのような考えから作ったのが、「ロマン派の音楽」であり、「オーシャン・ビュー・リゾート」だった。それらは、忘れられ、あるいは語られることのないまま消えていったかもしれない関係を語る試みだった。

映画『夜になるまえに』や『苺とチョコレート』が描くように、キューバではそう遠くない過去に多くの同性愛者が国外へと追放、もしくは亡命した。いくつの物語が、語られぬまま、伝えられぬまま消えようとしているのだろうか。しかしそのような物語は、意外な方法で表出し、新たな関係が芽生えるのかもしれない。忘れられていたバッハのシャコンヌが発掘され、キューバ出身でアメリカ兵士だったボレットによって演奏されたように。

かつてアメリカとの関係の中で生まれたコカコーラとバカルディのクバ・リブレも、また飲まれるようになるのかもしれない。自分には少し甘く感じるクバ・リブレを飲みながら、そんな風に考えていた。

 

撮影:ミヤギフトシ

 

 

ミヤギフトシ

1981年沖縄県生まれ。東京都在住。留学先のニューヨークにて、美術関連書籍の専門店に勤務しながら制作活動を開始。自身の記憶や体験に向き合いながら、国籍や人種、アイデンティティといった主題について、映像、オブジェ、写真、テキストなど、多様な形態で作品を発表。近年は文藝誌上にて、小説『アメリカの風景』『暗闇を見る』『ストレンジャー』も発表。アーティストランスペースXYZ collectiveの共同ディレクターをつとめる。近年の主な展覧会に、「小さいながらもたしかなこと」(東京都写真美術館、2018年)、「How Many Nights」(ギャラリー小柳、2017年)、「Almost There」(ヴァルガス美術館、2017年)、「あいちトリエンナーレ2016: 虹のキャラヴァンサライ」(愛知芸術文化センター他、2016年)などがある。