In Depth

Interview
文=幅谷真理

 

アートが紡ぎだす〈自然〉を求めて
——micro-voices:〈小さきものたち〉の声

 

自然保護運動の黎明期を牽引したアメリカの作家レイチェル・カーソンが、その衝撃的な著書『沈黙の春』を上梓したのは、1956年のことだった。のちに数十もの言語に翻訳され、ある種の金字塔として世界各地に広まっていった本書に接して、世の人々は私たちを取り囲み包み込む自然界を、私たち人間自らが蝕んでいたという事実に驚愕し、震撼した。それから約60年の歳月を経た2018年の現在、「春がきても黙りこくっている」と彼女によって表現された〈自然〉は、私たちの生活の中のいったいどこに、「たしかに存在している」と感じ取ることができるだろうか。

日々の雑務に忙殺された人々が生きる現代の社会において、〈自然〉を感じることはたやすいことではない。今や農村と呼ばれる地域においてさえ、住民のほとんどが〈自然〉に触れることなく、きわめて「都会的」な日常を送っている。朝起きて身支度を調えせわしなく会社へ、あるいは学校へ向かう。夜もふけた頃に家路につき、明日1日を同じように乗り切ろうと備えて眠りにつく。私たちの生きる都市は、まるで〈自然〉などとはまったく別世界、別の次元に存在しているかのような様相を呈している。つねに時間に追われ、人工のコンクリートに囲まれた巨大都市へと吸い込まれるように移動し、そこに住まう私たちの多くは、もはや、〈自然〉の感触を察知する余裕などない日々を営んでいるというべきだろう。

けれども、ふと心を落ち着けて、私たちの生きるこの世界に思いを馳せてみれば、そこには、緑の樹々や小さな虫たち、自然の恵みである食物とそこから滋養を得るカビなど、目に見えるものから目には見えない小さなミクロの生きものまで、多様な〈自然〉が、身近なところに、つねに存在していることが感じ取れる。ひっそりと、しかしたしかな息づかいで、〈自然〉は、今、ここに、存在しているのだ。そして、ともすると一見〈自然〉から遠く乖離してしまったように思える今日の生活の中で、こうした〈小さきものたち〉に着目し、アートワークを制作する作り手たちがいる。彼らは、日々、何を感じ、制作し続けているのだろうか? 彼らのまなざし、その先に広がっている世界のありようとはどんなものなのだろうか?

 

小さな植物との対話を試み、彼らの「声」を形にしたアーティストが安藤孝浩である。安藤の作品では植物がわずかに放つ光「フォトン」を目に見える形で我々の前に提示する。小さな声を意識するようになったのは旅行中のこと。山間の田んぼ道、しんとした中で聞こえたわずかな音――それは凍った田の土が溶ける微かな音だったという。耳にした瞬間自身の意識が山間の自然と一体化した感覚を得たという安藤はそれ以降、自然の中の囁きを抽出し、投影することを目指してきた。

 

眼にすることのできない小さな自然の声を科学の力によって媒介する作品を制作する安藤に対して、池田剛介は人工的に自然のシステムを表現しようと試みる。もともと自己表現的なアートのあり方について疑問を感じ、自然現象や物理的な仕組みを作品に組み込むということに関心があった池田は、東日本大震災を経て具体的なエネルギー変化や移動を扱うようになった。コスト削減を目指しあらゆることが自動化する中で、池田はあえて具体的なアナログの仕組みで現実と対峙する。そこには自然とともに寄り添い生きてきた私たちの営みを取り戻すヒントが隠れているに違いない。

 

遠くなった自然を、漠然と、しかしはっきりと自覚した村山修二郎が自身の活動を通して自然を取り戻す取り組みは非常に興味深い。自然そのものである植物を使い、その素材・色を生かし、作品へと落とし込んでゆく。行く先々の自然の声に耳を傾け、その土地にある自然そのものを使い制作する村山の作品からは触れる機会がなくなってしまった「野生の自然」を感じることができる。

 

本特別記事は、小さなものの声に耳を傾ける安藤孝浩・池田剛介・村山修二郎の3名のアーティストのインタヴュー・アーカイヴである。現在の社会における〈自然〉、そして〈小さきものたち〉にフォーカスし、作品制作を営むアーティストたちとともに、私たちの生、生き方の「別の可能性」について考えてみたい。そしてあらためて問い直そうではないか。私たちは、今、どこへ向かって、生きているのだろう——。

[東京藝術大学 大学院国際芸術創造研究科/幅谷真理]

*本インタビューは授業「芸術編集学」の一環として実施しました。

 

《micro-voices:〈小さきものたち〉の声》

第1回「すくいとり、抽出する」──安藤孝浩インタヴュー

第2回「ふれて、語る」──村山修二郎インタヴュー

第3回「感覚のその奥へ」──池田剛介インタヴュー