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Report
文=江上賢一郎

 

特別セミナー

 

「The Underground music scene in HK in a ‘Post-Hidden Agenda’ period」

 

レポート

 

 

2019年5月14日  東京藝術大学 大学会館2階 大集会室

 

 

スピーカー:黃津珏 (Ahkok Wong) (ミュージシャン、アクティビスト、独立研究者)
モデレーター/通訳:江上賢一郎

 

東京に滞在中のミュージシャン/独立研究者の黃津珏(アコー・ウォン)氏を招いて、2000年代における香港のインディペンデント音楽シーンと、観塘(KWUN TONG)地区における文化・芸術空間の変遷についてのセミナーを行いました。その内容をレポートとしてまとめています。通訳しながらのメモだったので日本語が説明調で読みにくいかもしれませんがご容赦ください。

 

 

 

アコー氏による挨拶、自己紹介

 

みなさん、こんばんは。夜にもかかわらずこんなに集まってもらいうれしく思います。アコー・ウォンです。私は香港出身で、この20年間インディペンデントのミュージシャン、アクティビスト、そして大学講師として活動してきました。今はロンドン大学ゴールドスミス校で、民族音楽学の博士課程に在籍しています。

 

今回は、2000年代における香港のインディペンデント音楽シーンについて、私が長年過ごしてきた観塘(KWUN TONG)地区における文化・芸術空間の変遷に絡めてお話したいと思います。なぜかというと、この観塘地区は2000年代にかけて香港における自律的な文化・芸術の重要な場所だったからです。

 

 

工業ビルの中で生まれた芸術家村

 

私が10年間暮らしていた観塘地区は九龍半島の東側に位置し、60年代の大規模都市計画によって造成された300以上の工業ビル(工廈/industrial building)が立ち並ぶ工場街、倉庫街です。観塘都市高速によって工業地区と住居地区が象徴的に分割されたこの地区は、かつては香港の工業、交通、商業の一中心地でしたが、70年代に入り香港の製造業が中国本土に移転するにつれて産業の空洞化が起こり衰退していきました。その後90年代に入ると安い賃料と広いスペースに惹かれて若いアーティストやミュージシャン、文化労働たちが入り込むようになりました。以降、観塘工業地区は文化芸術だけでなく、古くからの飴工場、レスリングジムや室内サッカー場などのビジネス、労働者の集合住居など、多様なスペースを内包したユニークな都市的コミュニティを形成し、このような多様で異種混交的な工業ビル内のコミュニティの様子は「垂直の村(Vertical Village)」と形容され、ここで生まれた芸術家たちのコミュニティは「観塘工業芸術家村(Kwun Tong’s Industrial Art Village)」と呼ばれるようになりました。

 

 

私は、2013年に香港の音楽研究者アンセル・マーク氏と一緒に「From the Factories」(2013年)というオンライン/出版プロジェクトを行い、観塘地区の倉庫街に点在する35のアート・文化空間の調査、運営者へのインタビュー(その目的、家賃、面積、どんな直面している問題等について)を実施しました。また、自分自身が過ごしたビル「Yeung 58」での生活を回想/記述したテキスト「Rethinking Poverty and Art: A Decade in Kwun Tong’s Industrial Art Village」では、単にアートスペースや文化空間に焦点を当てるのではなく、ビルに住み着いた人々の空間の使いかた、その暮らし、労働、そして彼らが取結ぶ相互扶助的な関係性について、工業ビルという巨大な空間をめぐる人々の実践そのものに注目して記述しました。例えば、廃品回収のために定期的にビルに来ていた高齢の女性と若いミュージシャンたちの日頃の付き合いなどです。定期的に空き缶を回収しに巡回する彼女のために、ビルに住む若いミュージシャンたちが日々大量に消費したビール缶をまとめて渡すことを日課にしていたこと、ビルの警備員が彼女の荷車の見張りをしてあげたり、印刷会社の労働者たちがダンボールを提供してあげたりしていたこと。そのような日々のささいなやりとりのなかに、香港での厳しい暮らしゆえの相互扶助のネットワークが存在していたのです。また、このように工業ビルに移り住み、シェアアトリエを作りながら活動するアーティストたちは、「Factory Artists」と呼ばれ、ビルのなかで独自の文化システムを作り出していきました。

 

多くの文化運動者たちが関わった90-2010年代における工業ビルにおける芸術家村の自律性は、ボトムアップ型の社会運動として捉えられることもありますが、元々はそのような社会変革目指す運動ではありませんでした。ほとんどは、学校を出たばかりの若者たちが、安い家賃で創作や演奏、練習や集まる場所を探していた結果としてこのような文化的コミュニティが生まれていったのです。比較的安い家賃、規制のゆるさ、商業的な投資の対象にまだなっていなかった工業ビルは、ある意味で都市の中のエアポケットのような自由空間として捉えられていたのです。

 

 

香港におけるクリエイティブ・クラスとジェントリフケーションの関係

 

観塘の工業ビルがこのような自律的な性格を持っていたのは、90年代から2010年までの20年間でした。基本的には、香港における工業ビルへの居住は違法であり、そこでの活動も法的にはグレーです。そもそも工業ビルは「生産」のための場として法的に規定され、居住空間ではない。しかし70年以降、産業移転によって空きスペースを持て余していた大家にとって、どんな形であれ借り手がついてくれることは都合が良く、借主は大家と個別の信頼関係を築いた上で契約を行い、家賃を払うことで秘密裏に居住していました。しかし、行政による周期的な検査が行われると、ペナルティを恐れた大家との契約も打切りになり、結果的に2~3年で退去することになります。北米やヨーロッパのようなスクワット(不法占拠)ではなく家賃を支払っているが、それでもイリーガルな状況には変わりはない状況です。

 

このように工業ビルには多様な文化空間が生まれていましたが、行政は依然として「生産」以外のビル利用を違法としていました。つまり文化芸術は「生産」や経済活動に結びつくものとは見なされていなかったということです。しかし2010年以降、工業ビルと文化芸術をめぐる関係性は大きく変わることになります。2010年には香港政府による再開発プロジェクト「Industrial Building Revitalization Measures」、2012年に香港文化発展局による「起動東九龍 (Energizing Kowloon East )」がスタートしました。ここで起こったことは、実際には観塘の大規模な再開発であり、東九龍地区の住宅街、市場、コミュニティが「地区の再活性化」の名の下に根こそぎ失われていく状況でした。私は、この状況を2010年代のポスト・インダストリアル期における都市政策「クリエイティブ・クラス」(リチャード・フロリダ)との関連において捉えています。観塘の大規模再開発は、香港における都市の再開発、経済活性化の特区をつくりだす2番目のプロジェクトとして位置付けられ、それは、文化や芸術などのクリエイティブ産業を後押しすることで、地区全体の不動産価値を上げ、さらなる投資を呼び込むというものでした。この流れのなかで、香港文化発展局の主導による様々な文化プロジェクトや、アートイベントが企画され、グラフィティアーティストたちによる壁画プロジェクトなども展開されていきました。このような状況のなかで、これまで工業ビルを拠点に活動してきた文化労働者たちは、ジェントリフィケーションが引き起こす家賃の上昇、規制の強化や取り締まりに直面せざるを得なくなり、嫌が応にも香港における再開発、ひいては政治的、経済的問題に対する危機意識が高まっていったのです。

 

 
 

Hidden Agendaの活動(2009~2017)

 

Hidden Agendaも、まさにこの工業ビルをめぐる再開発の変移とともに生まれ、展開し、消えていった文化空間だと言えます。Hidden Agendaは、2009年に観塘の工業ビル「Yeung 58」に住んでいた実験的音楽の愛好者たちによってスタートしました。最初は個人のアパートにライブ機材を持ち込みライブハウスとして使ったことがはじまりでした。それ以降、3回の引越しともに拡大していいき、四つの場所での営業を経て2017年に閉店することになりました。私がHidden Agendaに関わっていたのは第2期(2012~2015)で、主な役割は警察対応でした。香港警察には警察市民課があり、市民の様々な活動に対する取り締まりを行っています。香港では、ライブハウスの運営には、興業許可や酒類販売許可が必要ですが、Hidden Agendaはいずれも申請することなく運営を続けていました。その理由は、興業許可に必要とされる法的・設備基準が設けられた場合、家賃や経費の負担が格段に重くのしかかり、商業目的でない実験的な音楽シーンを目指すHidden Agendaの運営方針では到底存続不可能だったからです。

 

 

Hidden Agendaの一回目の立ち退き理由は入居ビルの売却でしたが、次の場所に移転して一年もたたないうちに今度は営業許可の問題で行政から再度立ち退きを迫られました。そこで、2012年に私たちが中心となって過度な規制、高騰する家賃問題とその原因としての再開発、そして行政の執拗な立ち退きに対抗するメディア・キャンペーンを展開しました。これはデモや陳情だけでなく、新聞への寄稿を通じて広く世論に訴えかけたることを目的とした「IRP (Independent revitalization partnership)」プロジェクトを立ち上げました。このプロジェクトは「再活性化(Revitalization)」という言葉に対する強い異議申し立てでもありました。再活性化という言葉は、すでにコミュニティや街の活気が失われた地域の再生という名目と同時に投機的な大規模再開発への口実だったのですから。観塘地区の工業ビルに自立した文化的なコミュニティが存在しており、行政や企業の介入するトップダウン的な再活性化は必要ないと大多数の住民は考えていたのです。

 

このIRPプロジェクトの中で実行されたデモ「生勾勾被活化大遊行」は、アート、音楽、演劇から市民運動まで、これまで別々の領域で活動していた香港の各集団、個人が集まり、「再開発」という共通の問題に対して協働した最初のアクションとなりました。これが、後々の香港における文化表現と社会運動の結びつきを生み出し、その後の持続的な協働関係を築く端緒となりました。500名ほどが参加したこのデモでは多数のアーティストも参加しており、香港芸術文化発展局へと行進しつつ、歌ったり、ドラムを叩いたり、演説をしたりしながらオフィスビルへと向っていく様子が映っています。香港芸術文化発展局の入るビルに到着すると、Hidden Agendaのメンバーたちが、Hidden Agendaのドアを神輿のように担ぎ、玄関まで運ぶパフォーマンスを行いました。ドアには再開発反対を求めるメッセージが書き込まれており、発展局の建物前に設置し、その前で抗議声明を行いました。(ドアを運んできた理由は、「新しい移転先が見つかるまで、このドアを発展局が責任を持って面倒を見るべきだ」という主張が込められていたとAhkok氏は述べる。)面白いことに、このドアは2012年のベニス建築ビエンナーレの香港館で展示されることになりました。当時、東九龍の再開発のプロモーションを兼ねた内容の展示プランのなかに、東九龍、観塘地区の人々の暮らしとコミュニティについての記録を紹介するプランの中で、HiddenAgendaの活動もその一つとして展示されることになったんです。その際に得た資金の一部で、ドキュメンタリー「Hidden Agenda the Movie」が製作され、日本でも2012年、(art space tetra, 福岡)、2013年(素人の乱, 高円寺)2017年(渋谷アップリンク,2017年)に友人たちのネットワーク経由で自主公開が行われました。結果的には、2回目の移転先でも興行免許の問題に直面し移転することになりましたが、このようなメディアを介したキャンペーンの功罪として、広く世論に知られる反面、結果的にインディの東京ドームと呼ばれるほど有名になりすぎてしまったという点があります。最終的には4番目の場所に移転するも規模が大きくなり、結果的に家賃の問題で閉店することになりました。ただし、Hidden Agendaは200人くらいの小さなライブハウスではありましたが、その場所での活動は、香港における以下のような様々な社会的、文化的問題、コンフリクトや矛盾を照らすものでした。

 

1.再活性化 2.興行許可証 3. 消防法 4. 移民労働者 5. 騒音問題 6. 再開発 7. 官僚制 8. 空間的正義(spatial justice)9. クリエイティブ・クラス 10. トップダウン型文化政策 11. 酒類販売許可証 12. コピーライトライセンス 13. 合法/違法薬物。

 

その点こそがHidden Agendaが、香港の自律的な文化シーンにおいて果たしたとても重要な役割だったのだと今になって実感しています。

 

 
 

香港の現状とHidden Agenda以降の香港の文化シーン

 

最後に、アコー氏は香港の政治的、社会的状況を、赤のまま変わらない横断歩道信号、すなわち「Read Light Situation」と呼び表した。香港の行政はもはや市民の声を聞こうとせず、中国本土の命令の代理人となりつつあり、香港における民主主義が瀕死の状態であると言及した。しかしそれと同時に、この状況における、香港の文化的な動きについて、「Cultural Practice under the authority」というタイトルのなかで、権威的政治体制における香港の文化実践は、政府に押し付けられた赤信号を毅然と渡っていくような文化的実践の変化について語った。2019年4月に演奏ツアーで久しぶりの長期滞在をしつつ、香港におけるHidden Agenda以降の音楽シーンでは、約10箇所の新しい場所が生まれており、それらすべてが営業許可を持たない非合法のライブハウスであった。これらのライブハウスは、演奏だけではなく、集会や勉強会、上映や展示といった複数の機能を備えていた。また、これらの空間は表立ってオープンな場所というよりも、友人や知人たちの口コミでつながるネットワーク経由で訪問可能な、セミクローズドな場所であった。

 

このような新しい場所の特徴について、Ahkok氏は以下の点を挙げている。

 

1. 脱中心化-分散
HiddenAgendaがそうだったように、一箇所の中心となる拠点をベースに
全ての活動が集約されるのではなく、複数の異なる小さな空間が、都市の各地に点在し、それらが互いに有機的につながっている。脱中心的で、分散型の文化ネットワークの構築。また、複数のジャンルの活動が並存しているスペースの増加。

 

2. DIO, DITO 
DIY(DO IT YOURSELF)から、DIO (DO IT WITH OTHERS)、DOTO (DO IT TOGETHER)という、異なる他者との協働への指向性が生まれている。コマーシャル的(サウンドシステムの会社のプロモーション)ではあるが、一緒に野外ライブやパーティを作りあげることで、脱中心的、一つの場所に集中しない文化の形が生まれてきている。香港における文化的ハビタット(生息地)の拡張、文化に関わる人々のスペクトラムが広くなった。ゲリラギグ、スクワットなど。重要な点は、スペースに閉じこもるのではなく、積極的に外に出ていく姿勢。

 

3. Independent から Undergroundへ
チェコ、Plastic Universe of the People の事例を挙げて、権威主義的体制における抵抗文化の戦術が香港でも見られるようになったと指摘。インディペンデントからアンダーグラウンドに移行するプロセス。大きなグループやシーンの形成から、より分散化し、小さな集団をベースにした表現活動へと移行。インディペンデントとは、どのような文化的資源を選択し、また距離をとるかという文化的資源へのアクセスの経路と選択の問題だったが、アンダーグラウンドは、主に表現におけるメディア表象の問題に関心を置く。インターネットやSNSが自由で公平な空間でなくなった今、どのようなメディアを利用/創造するのか、そしてそれらのメディアを介してどのような表現を作るか、伝えるか。これは、ソーシャルメディアの転換期にあって、その使い方をそのものを大きく考え直す必要から生まれた戦術。SNSを長らくプロモーションのために使っていたが、ほんとうに自分たちの役に立つものになっているのか。

 

4. Participant agency 
場所にあつまる人々は、単なる客ではなく、むしろシーンを一緒に作り出していく関係性、関与していく主体でもある。客の参加の形態や、関わり方がより主体的、積極的、多様なものになっている。

 

 

感想

 

Hidden Agendaがオルタナティブな場であり得たのは、その場所の存在と活動そのものが、香港の様々な問題と矛盾を浮かび上がらせる場であり、抗争の現場そのものであった点だ。オルタナティブスペースの特徴は、その空間、そこに集う人々の活動そのものが、社会的、文化的、経済的な諸矛盾と不可避的に対峙することになるような、逸脱性、耐候性、自律性を備えているという点にある。Hidden Agenda以降、中心的な拠点がなくなり、かつ抑圧が強くなっていく中で、状況を逆手にとりつつ、より新しい空間の隙間を見つけ出し、柔軟かつ臨機応変に対応していく現在の「赤信号」下の香港の状況についてAhkok氏の見方は単に悲観するだけでない、新しい文化運動の萌芽の可能性をそこに見出しているように思えた。

 

 

(通訳/文責:江上賢一郎)

 

 

 

 

通訳/文責:江上賢一郎(国際芸術創造研究科 博士課程)