Skip to content

In Depth

Report
文=三宅敦大

 

“Practice for the Possibility of PLAY”

遊びの可能性のためのプラクティス

 

 

2018年3月21日から4月8日まで、東京藝術大学大学美術館陳列館にて「Pn-Powers of PLAY-」が開催された。本展覧会は、東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科の授業科目の一環として、本学教授長谷川祐子監修のもと、学生を主体に開催されたものである。本企画は1年間の授業の成果をアウトプットすること、また実践を通してよりプラクティカルにその学びをアップデートしていくことを目的としている。2回目の開催となった本企画において、今回の展覧会では「PLAY(遊び)」をテーマに、展覧会のコンセプト、作家選定など、展覧会のあらゆるプロセスにおいて学生たちが中心となり、実際にアーティストと対話する中で展覧会を構築した。また、今回は建築専攻に在籍する学生もメンバーに加わり、計7名での共同キュレーションとして、より広く多様な視座をもって展覧会を企画した。

 

本展覧会では、様々な問題を抱えながらも、日々新たな価値観が生まれつつある現在の世界において、よりフレキシブルな思考を可能にするものの必要性を問うとともに、その可能性を内包するものとして、「PLAY(遊び)」を提示した。また、展覧会において私たちはPLAYを「我々を一時的に非日常的空間へ導くもの」として捉え、それによって生まれる非日常的体験のあり方を再考するとともに、それが現代においてどのように展開できるのかを検証しようと試みた。

 

そのために本展覧会を「マテリアルとメディウムの遊戯」「身体と空間の遊戯」「遊戯のヘテロトピアス」の3つのセクションによって構成した。一つ目に当たる「マテリアルとメディウムの遊戯」では、日常に溢れるマテリアルやメディウムを、それらがもともと担っていた役割や枠組みから解放し、モノ自体の存在論について再考するタイプの作品、もしくはそういった性質にフォーカスした。二つ目に「身体と空間の遊戯」では作品、もしくはそのプロセスを介して、鑑賞者の身体を巻き込みながら空間の質を変容させていく作品を中心に展示を構成した。そして三つ目の「遊戯のヘテロトピアス」では美術館の内部における体験を如何にして日常へと還元していくのかを模索するとともに、外部空間において作品を提示することで、遊戯的な思考がもたらす多様なヘテロトピアスのあり方を暗示することを目指した。

 

これらを踏まえ展覧会全体の構成について今一度振り返ってみたい。会場へと足を運んだ人が最初に目にするのはおそらく正門の正面にある本展覧会の大看板だろう。

 

東京藝術大学美術学部校舎大看板 ©︎ARI TAKAGI

 

このグラフィティについて、SNS上では誰かに落書きをされたのではないかとの投稿を目にしたし、会場受付でも「これが運営の意図的なものなのか、それとも誰かに落書きをされたのか」との質問は何度かあった。実際には出展作家TENGAone[1976-]によって制作されたものであり、これは意図的なものである。しかし、これが意図的であるかということはあまり重要ではなく、むしろこれが本物か偽物かという問いをもたらしたことが重要であったように思われる。なぜなら、こうした問いは既存の枠組みを越えるための自由な思考をもたらすことが期待できるからである。

 

メインの展示会場である陳列館では、会場に入ってすぐに左にある暗室の菅亮平[Ryohei Kan, 1983-]の映像作品《Endless White Cube》(2016-2017)から展示が始まる。これは連続するホワイトキューブの迷路の中を歩いていく様を一人称視点で表した作品である。ここで鑑賞者が映像の中に没入して行くという体験は、そのまま、展示会場という一つの非日常的空間、すなわちヘテロトピア(日常の中の異なる空間)に自身が迷い込んでいくという美術館の鑑賞体験そのものと重なっている。そして、それは先に述べた本展において私たちが考える「遊び」の性質とも一致しているのである。

 

菅亮平《Endless White Cube》2016-2017、 映像インスタレーション  ©︎ARI TAKAGI

 

暗室を後に、一階奥へと歩みを進めると、江頭誠[Makoto Egashira, 1986-]による巨大なインスタレーションと、水田寛[Hiroshi Mizuta, 1982-]による絵画空間、そして建物の内側から中庭へと接続するように小野耕石[Koseki Ono, 1979-]による版画作品が展示される。

 

江頭誠《SUIT》2017、ミクストメディア  ©️UJIN MATSUO

 

左:水田寛《試合中》2015、油彩・キャンバス・糸 右:小野耕石《Hundred Layers of Colors 17》2014、シルクスクリーン  ©️UJIN MATSUO

 

江頭は戦後に日本で独自に発展、普及した薔薇柄の毛布を用いて、空間を支配するタイプのインスタレーションを展開する。日本独自のものでありながら、薔薇というモチーフやロココ調の柄という西洋的な要素を内包している毛布で空間やあらゆるマテリアルの表面を侵食する事により、いわゆる西洋や、東洋といった枠組みでは説明できない現状をユーモラスに表象している。

 

水田の絵画は自身にとっての習作、失敗作等を裁断し、それらを再構成、縫合、一枚のキャンバスとして提示し、その上にさらにイメージを重ねていく。本来は支持体であり、イメージを持たないキャンバスがイメージを持つようになることで、絵画における支持体とイメージという既存のメディウムの関係を解体する。また、支持体の内包するイメージと全体のイメージの不一致は、鑑賞者と絵画との適切な距離を曖昧にするとともに、自由な距離の模索を促す。

 

水田の作品がイメージのレイヤーとその不一致において、作品と鑑賞者の距離を問い直したのに対し、小野耕石はシルクスクリーンのレイヤー構造を利用して、作品を見る角度、つまりは視線の位置、そのあり方について問い直す。小野はシルクスクリーンの一つの版を、色を変えながら100層近く刷り重ねていく。このプロセスにより、本来平面である作品は、インクの層によって隆起し、無数の突起の集合となる。そのため、角度によって見える色が変わるため、作品の前を通り過ぎる時にその表面は、水面のように揺らぎ、色彩は止まることなく変化し続ける。

 

また、今回は小野の作品を屋外にも展示した。作品は24時間変わり続ける光のもとで、また時には雨に濡れその表情を変える。これは作品の多様な見え方を強調するとともに、作品を環境の一部として提示することで、それらがどういった関係性を築いていくのか、日常とアートをいかに接続していくのかということについてのプラクティスである。そして、屋外に出るという身体的な行為と、小野の作品が美術館の内側と外側の空間を繋いでいくという体験も重なっている。

 

小野耕石《古き頃、月は水面の色を変えた》2018、シルクスクリーン  ©️YUU TAKAGI

 

1階の展示を経て、展覧会は2階に接続する。これらの隔たれた空間を接続するものとは何か、本展覧会においてそれは物理的には階段であるが、階段とはすなわち、異なる層のものをつなぐものである。そして、この役割を担うのが、階段に展示された堀内悠希[Yuuki Horiuchi, 1990-]のドローイングインスタレーションと映像作品である。

 

堀内悠希 ドローイングインスタレーション、ミクストメディア  ©️UJIN MATSUO

 

堀内のドローイングは、既存のものからイメージを抽出したタイプや、既存のものとイメージを組み合わせたタイプ、過去の展覧会のインストラクションなど様々である。一つ一つのドローイングやモチーフとなるマテリアルは直接的に繋がりを持たないが、それらが作家を通し再解釈され、アウトプットされることで、それらは作家の色とでも呼ぶべきものに染まる。そのため、鑑賞者はそれらのドローイングのうちに繋がりを見出してしまうだろう。また堀内の作品のうちには望遠鏡や、点を線でつないだようなモチーフなど、天体や星座を想起させるものがしばしば登場するが、ドローイングインスタレーションにおいて生じる作品間の自由な接続もまた、作品間の距離や時間を超越しているという点において星座的である。そして先に述べたようにこの構造は異層をつなぐという階段の構造とも一致しているのである。

 

手前:小畑多丘《B-BOY Alldown Quinacridone》2018、楠 奥壁面:TENGAone《A bit player》2018、ミクストメディア ©️UJIN MATSUO

 

2階は、空間の中心に小畑多丘[Taku Obata, 1980-]の彫刻があり、手前にはTENGAoneのグラフィティとインスタレーションがある。小畑は自身がブレイクダンサーであることに端を発し、身体と空間との関係性、またその境界線の動きを表現する。会期中には、作家の友人であるブレイクダンサーが実際に会場内で踊るというハプニングが起こり、彼ら独自の文化と、空間認識、そして身体が空間の性質そのものを変えてゆくというプロセスの一端を見ることができた。

 

また、TENGAoneの展示空間では、描かれたイメージに加え、作家が製作した痕跡をインスタレーションとして残すことで、行為としてのグラフィティをみせた。また、そこに残された画材などについては鑑賞者が自由に利用し、描くことを許容した。それは街中におけるグラフィティのアナーキズム的性質、場所のあり方を変えるという性質を残すとともに、それを絶えず、だれでも更新可能であるということである。

 

彼らはリアルな空間に対してブレイクダンサーの身体とグラフィティという行為をもってしてアプローチすることで、その場の性質そのものを変化させてゆくだけでなく、そこで起こるハプニング的要素を許容することで、それが誰にとっても更新可能であるという開かれたものにすることを提示するのだ。

 

彼らがリアルな身体と空間について魅せる一方、2階の奥には戸田悠理[Yusuke Toda, 1991-]とシャナ・モールトン[Shana Moulton, 1976-]によるインターネットを介したある意味でのヴァーチャルな身体、空間に関する作品が展開する。戸田はSNSやインターネット上で「#(ハッシュタグ)」を用いてリサーチした画像や自身でデザインした雲などのモチーフをデジタルコラージュし、それを油絵として描き起こす。画面上においてあらゆるモチーフは文化や、時代を超え、等価に扱われる。それは、ダグラス・クリンプがラウシェンバーグについて述べたように、「それらのモチーフが存在しなかったから」ではなく、それらが等価に扱われうるという既成事実がパソコンの画面上に存在するからである。

 

戸田悠理 展示風景 左《Encounter 1》2015、oil on canvas 右《We leave here, and then forget you》2018、oil on canvas ©️UJIN MATSUO

 

また、イメージを削り取ったような線とそこから別のレイヤのイメージがのぞくという構造は、画像編集ソフトの登場によって初めて可能になる表現であるように思われる。戸田はこうした現在だからこそ可能な平面構造を絵画に反映することで、絵画の可能性について示唆するのである。これに対し、シャナ・モールトンはディスプレイの中におけるリアリティにおいて作品を制作する。現代の映像編集技術から察するに明らかにチープな彼女の映像はリアルとヴァーチャルがシームレスになっていく現代において、ヴァーチャルのフィクション性を再認識させる。また、リアルとして認識しているものの中に介入しているフィクションや、あらゆる物事のフラジャイルな感覚に関して、シュルレアリスム的に表象することで、現実に対してユーモラスに、軽やかに捉え、超えていく思考のあり方をその独自の世界観において提示するのである。

 

シャナ・モールトン 展示風景 左:《The Undiscovered Drawer》2013、映像 右:《MindPlace ThoughtStream》2014、映像 ©︎ARI TAKAGI

 

以上の流れを通して、本展覧会では、日常空間から、美術館という非日常の空間(ヘテロトピア)へと鑑賞者を誘い、芸術分野におけるPLAYに始まり、マテリアルから身体、そして空間へとその遊戯的なアプローチを拡大、展開していった。そして、本展はそれを美術館の外部空間へと、もしくは美術館の内部空間の質そのものを変容させていく中で、再び日常へと回帰させていく試みであり、多様なヘテロトピアスの可能性を常に模索し続けるための一つのモデルを提示しようという試みであったということができるだろう。

 

また、本展覧会の実践に加え、会期中に開催した二度のアーティストトークでは、アーティストと彼らの作品に関してより思考を多方面へと展開することができたように思う。その中でテーマや作品の解釈に関してキュレーターの中で揺らぐ部分は多々あったように思われる。そして、それは同時に自分たちがキュレーターとして如何に浅はかであるかという現実を突きつけられた瞬間でもあった。また、本展覧会は17日間の会期において、来場者数はおよそ6300人であったが、会期中各キュレーターが監視員として来場者と展覧会や作品について話をする中で、展覧会の当事者としてではなく鑑賞者としての客観的な視点を知ることもできた。これらをうけての思考の変化や、更新について、それはおそらく本展カタログにおいて共同キュレーター一人一人のテキストの中に反映されてゆくだろうから、ここでは触れずにおくことにする。

 

最後に、本展覧会はこれらのプラクティスに対して、明確な答え、方法論を与えるものではなかっただろう。本展は、一つのシミュレーションであり、こう言ってよければ成功、失敗のない実験であったように思われる。こうしたアプローチ(答えを出さぬままにして可能性のみをしめすこと)が果たして良いことであるかどうかについて、現段階ではわからない。また、グラフィティなどを扱いながら政治的なものに触れない点や、美術館の内部と外部という話をしながらもその制度論的な部分に触れないでいることはいささか無責任に思われるかもしれない。だが、私たちは少なくともそれを望まない。そうした議論のうちに回収されること、もしくは回収しようという欲求から、私たちは解放されるべきである。それなしにおそらく私たちは既存の枠組みを超えることはできないだろう。なぜなら現代において必要なものは、既存の枠組みを否定、破壊し、それを塗り替えるものではなく、既存の枠組みを理解しつつも、それを軽やかに越境していくものだからである。そのため、私たちにとっては物事を固定化せず多面的に捉え、遊びを持たせる中で、揺らぐ思考の海に漂うことが重要なのではないだろうか。

 

文=三宅敦大(国際芸術創造研究科 修士課程)

Back To Top