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In Depth

Interview
文=幅谷真理

micro-voice:ふれて、語る

——村山修二郎インタヴュー

 

アーティスト村山修二郎は、草木をそのまま紙や布などに擦りつけて描く「緑画」(りょくが)の手法を発案した。展示場所に入ると、日々刻々と変化する緑を草木の匂いとともに確認することができる。生きているものたちの生の叫び・彩りをここまで直接的に感じられることは今まであっただろうか。都市に生きる私たちが、最後に緑に触ったのはいつだろうか。無くしかけた感覚を取り戻すために、目の前にあるにも関わらず見えなくなってしまっていた自然を確かめるために、村山の「緑画」は大きな役割を果たしている。今回、村山が「緑画」を行うようになったきっかけから現在に至るまでの道のりをたどるインタヴューを行った。

 

◆「自然に呼ばれる」ように、植物で“描く”

 

──植物を摘み取り、直接画材として描く「緑画」を発案されましたが、この技法を行うようになったきっかけについて教えてください。

 

村山:植物を使って描き始めたのは2007〜2008年ごろでした。都心に引っ越してきて数年経った時、もともと植物を描くのが好きだったのと、自然から遠ざかっていた自分に気づき、植物や自然を介して自分に素直になって生きようと思ったのが、そもそものきっかけです。

その時点で「緑画」を考えていたわけではありません。ただ、「そういえば小さい頃遊んだ時、例えばしりもちをついたときに植物の色が服についた」みたいな小さな記憶はありました。ですので、「植物って色があるんだよね」という普通のことに気がついて、一回葉っぱを擦って手で描いてみたのです。それは植物で絵を描くという意識的な行為ではなくて、やっぱり色が出たということを確かめただけでした。

でもやはり、都心の墨田区に住んだことは一つのきっかけでした。都心にある植生に気づきました。「自然に呼ばれるように……」という感覚があるけれど、いろんな場所で制作をしていても「呼ばれている」ような気がします。都心へ移り住んだことは、私にとって土の上を歩いていないことに気づいた瞬間でもあった。 都心に住んでいると土面が存在しない。なんでもない時にふとこう、違和感というか……足で地面を踏んで歩いている時の感覚や感触に「あれっ」というような瞬間がありました。

 

──「緑画」と並行して「植巡り」(しょくめぐり)という取り組みもされていますが、どのような気づきがありますか。

 

村山:地域に眠っている価値や地域独特の植生などを楽しんで見つけることが多いです。地域にいる方たちは、そこにある植生の中の魅力がなかなか見えない。そこに文化や地域性もあったりするので、それらを紹介しながら、その町に来てもらうきっかけ作りもできる気がします。そのきっかけ作りが、いろんな地域で「植巡り」をやることの意味になるのではないかなと。魅力的な場所も多く、人と介在する植物のあり方がアートに似ていると感じる部分も多く、素直にそれらを紹介したかったのです。

 

──都会では自然と共存している気持ちが遠くなりがちです。植物が管理されている場にしか存在しない環境での「植巡り」によって、私たちは都会にある植物と人間が共存し暮らしている事実に気がつくことができます。

 

村山:都市部でフィールドワークをして植物を育てている方にメモを取りながら話を聞くのですが、その人なりの植物に関わる物語があります。基本的に都心で植物を育てている人って年配の方が多く、今の都心における植物との関係性は、そうした年配の方との対話の中から学べることが多いです。ですから「植巡り」はインタヴューから、気になるポイントは文字起こしもしています。「植巡り」の企画を実際に開催する時には、どこかで文章を読めるようにします。

また、都会と田舎でやる「植巡り」には違いもあります。同じ都心でも、場所が違えば植物のあり方や種類も異なる、もちろん地方に行けばまた違うし……富山と秋田、福島でも違う。そう考えると、小さなエリア内でも違うんです。だから、いろんな地域でやる意味があるわけです。

 

 

◆「小さな自然の声」に耳を傾ける

 

──子どもや若い人に対しても、村山さんは芸術を使ったワークショップなどを多く行われていますが、どういった気持ちで取り組んでいらっしゃるのですか。

 

村山:東日本大震災以降は意識的に、植物を介したワークショップを……それこそ保育園、小学校、中学校、養護学校、高校、大学など、様々なところで行ってきました。意図としては、子どもと自分が一緒にやりながら学んでゆきたいという意識もあるのですが、小さい頃に植物や自然を介した学びの記憶を、そこに芸術をも介してゆくことで、子どもたちにインプットできないかということがあります。人と自然との関係を捉えられる人がちゃんと育たないと、今私たちがいる状況がどうにもならないのではないか。そういうところから、アートや自分の役割を考えて、取り組んでいます。

 

──子どもに向けた活動の中で気がついたことはありますか?

 

村山:都市部も含めて「植物で描く」ことをよくやっていますが、人間って自然物を触ると手が豊かに動くんですね。筆や鉛筆だと、均一した持ち方や書き方だったりしますが、植物を使って描くと、自分の画面の中で手が豊かな感覚で創意工夫をして動いていきます。いろんな葉っぱがあるので、硬かったり柔らかかったり、ざわざわしたりする。花ものであれば色がパッとついたり、つかなかったりする。それらを見るのも楽しい。また、子どもたちがいろんな手の動かし方をしているのを見ると発見があります。「触れる」という行為を通じて、「考える」とか「作ってゆく」という行為が、元々の我々の遺伝子のようなものの中にあることを感じます。

なので、今の状況を私は悲観的には受け止めていません。きっかけさえ与えれば、状況はきっと変わるだろうから、それが大切だと思います。今の子たちが昔と比べて、どこか大きく変わっているかを聞かれたら、 そんなに違いはありません。逆に学校や家庭、身の回りの大人たちによって、子ども時代の体験や学びが大きく変わると思います。

 

──ちなみに「緑画」では、描きたいものがあらかじめ見えて描いているのですか?

 

村山:その場に行ってから考えます。下書きも基本描かないし、その場で「じゃあどうするか?」と。普通であれば展覧会があるから作品を出さなきゃ……って焦るのだけど、全然焦らないのです。植物に任せる、自然に任せる。その辺は漠然としていて、なるようにしかならないのだから。臨機応変、自然任せ。まさに「自然の声を聞く」ことをしています。使える植物もあれば使えない植物もあるし、夏の時期と冬の時期ではまた全然違う。植物の声に耳を傾けて制作します。前にも言いましたが、「描きなさい」と自然に呼ばれているのでしょう。不思議なものです。

 

──「緑画」を描いている中で思い出に残っている植物、場所はありますか?

 

村山:その時々で、かなり満たされる感じで描いています。その場に行って、現地のものを食べて、そこの空気を吸って、植物に触れて、絵を描く……贅沢ですよね。以前北海道で雪を掘り、雪の下にある植物で描いてきたのが、素敵な思い出です。どこへ行っても「緑画」を描いた記憶は、優劣をつけられませんね。

また「緑画」は描いた直後から色が変わります。すごく詩的で、ダ・ヴィンチみたいに色が退色したかのような、あの綺麗な色に数週間でなるのです。 それがなんとも贅沢で、あの時間を越えた雰囲気に一気になるのが面白いなと感じています。

 

──地方から都心まで、状況が異なる場で「緑画」を描き続けられていますが、自然に囲まれた場所と、都心のコンクリートの中で作品を制作するのとでは違いがありますか?

 

村山:ビルに囲まれた都心で描く場合は、お花屋さんで廃棄される花とかをもらってきて、描きます。限られた植物を使いながら、どんどん捨てられてしまう花屋の中にある自然の生などに着目しながら、命を預かって作品化してゆく気持ちになりますね。都市でいう「緑画」のあり方は、他とはちょっと違うアプローチをしているような気がします。

 

──最後に。今、私たちがこの小さな自然の声に耳を傾ける意義、意味とは何でしょうか。

 

村山:大きなものに意識を感じるというよりは、ミクロの世界からマクロな世界に広げていくような感覚を人が築いてゆくのがいいように思います。根源的で根本的なところを理解するのに、小さなものをちゃんと観られる。そういう感性が大事ではないでしょうか。「気づき」みたいなものは身近なところに隠されているから、そこを感じられる人ってやっぱりすごい。そういう子どもが将来を培ってゆく気がするので、別にアートの分野に限らず全体的に、社会を作っていく時にはそういう感覚が必要ではないでしょうか。そういう面では、アートの役割は大きいのだと感じています。

 

 

[インタヴュー収録日:2018年1月11日]
文=幅谷真理(国際芸術創造研究科 修士課程)

*本インタビューは授業「芸術編集学」の一環として実施しました。

 

《micro-voices:〈小さきものたち〉の声》

アートが紡ぎだす〈自然〉を求めて——micro-voices:〈小さきものたち〉の声

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