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In Depth

Special Lecture Report
田中功起

意図の向こうへと導かれる:
フー・ファン(胡昉)の思考に触れながら
──特別講演会「グローバル時代の芸術文化概論:意図なき空間にむけて:
今日のアートのための空間における可能性」を聴いて

東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科アートプロデュース専攻主催特別講演会

2017年11月11日開催
会場=東京藝術大学 上野キャンパス 音楽学部 5号館 109教室

Photo: Shu NAKAGAWA
中国・広州で自身が主宰・運営するスペース 「ミラード・ガーデン(鏡の庭)」の様子を写 した記録写真を紹介するフー・ファン Photo: Shu NAKAGAWA

ぼくたちにとって、つまりそれはアーティストたちにとってということだけれども、「個」とはどういう意味をもち、またそれはどう解体されるのだろうか。そして作品やプロジェクトにおける「作者」の位置をどのように再考することができるだろうか。ぼくたちはいったいどれほど自らの意図通りにものごとを進め、あるいはその意図をはずれ「失敗」するのだろうか。そもそも意図通りに行かなかったことを「失敗」と呼ぶべきかどうか。むしろそれは無数の可能性にプロセスを開いていく方法なのではないか。ぼくはそんなことを考えながらフー・ファンの話を聞いていた。フー・ファンの語りはいつもゆっくりと進む。それはひとつの料理を食べるときにしっかりと咀嚼しながら素材に何が使われていたのかを想像する作業に似ている。だから彼との会話はいつもぼく自身の思考を回転させる。いつの間にか共に歩いていた彼の思考は会話のプロセスの中でまったく別のところ行っていたりするんだけれども。

東京藝術大学でのフー・ファンのトークは、いくつかの、彼自身が出会ってきた事象や出来事をある意味では再配置していくものであった。ぼくはそのいくつかをすでに聞いていた。彼が共同ディレクションをとる「ヴィタミン・クリエティヴ・スペース Vitamin Creative Space」が、農業をリサーチしはじめ、それが「ミラード・ガーデン(鏡の庭)」というスペースとしてできあがるまでに、どのくらいの年月がかかっただろう。まだ更地のころに一緒に中国・広州の土地を訪ねたときからすれば、もうずいぶん経つ気がする。だけれども、彼と会うときはいつもお互い移動の途中、さまざまな断片は(個別の話は具体的でよく分かるのだけれども)、一体どこに向かっているのか、ぼくには見当がつかなかった。その意味でこのトークは、ぼくにとって、それらのばらばらの断片が縫い合わされていく過程として聞くことができるものだった。フー・ファンの興味は多岐にわたる。ぼくのこの短いレポートでは、複数の方向に枝分かれしていた話がどのように結ばれていったのか、ぼくなりに再構築してみようと思う。

「ミラード・ガーデン」で行われている、10代 の参加者が集いともに料理をつくるワークショッ プ・シリーズの記録写真から Photo: Shu NAKAGAWA

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フー・ファンたち、つまりヴィタミン・クリエティヴ・スペースが自然農法に興味を持ったのはいつごろだろう。ぼくは当初、そこで目指されているものがなんであるのかを理解していなかったと思う。ぼくが以前住んでいたカルフォルニアでは、オーガニックな食生活はラグジュアリーであり、健康的な食生活である前に、社会的なステイタスにも関係していた。アメリカのグローサリー・ストア(食料品店)は人々の経済格差に対応して残酷なまでに品質が分けられており、それぞれの経済力に見合った別々の店がある。その頂点にはオーガニック・フードやヴィーガン・フードを贅沢に配置するホールフーズ・マーケットがある。実際ぼくもたまに行ったけど、会計のときに驚くような金額になることもあった。それは、資本主義経済における強者にだけ与えられた「クオリティ・オブ・ライフ(生活の質)」であり、環境への配慮も、健康への配慮も、とにかくお金がかかるということを意識させるものだった。そんなわけで、ぼくにとって自然農法とは、「有機農法のより極端な例」といった程度の知識のまま留まり、その本来的な意味を知ることもなく、いわば「より付加価値の高い資本主義的プロダクト」として捉えていた。もちろんそれはまったく的外れであったし、フー・ファンの興味はそんなところにあるわけがなかった。むしろ彼の興味は、ぼくにとってもなじみ深い、「作者性(Authorship)」をめぐる問いであった。

オーストリアの山麓の町、クラメテルホフにある 農園「クラメテルホフ」を訪れたときの記録写真 から Photo: Wataru SHOJI

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オーストリアの山間の町、クラメテルホフにあるゼップ・ホルツァーの農園(といってもそれは一見したところ無造作な自然の山にしか見えない)の写真を見せながら、フー・ファンはホルツァーの態度について話す。ホルツァーの面白いところは、今日一般に「自然農法」あるいは「パーマカルチャー」と呼ばれる類いの農業技術を学んだうえで自身の農園を作り上げたわけではない、という点にある。彼は自分が譲り受けた土地をどうにかしてメインテインするために、植物が自ら育っていく環境を構築しようと研究を重ね、植生を調べ、池を作り、生態系を確保する。それが結果的にかぎりなく自然農法に近づき、そう呼ばれるようになる。つまりホルツァーは自分が何をしているのかを知らずに、必要に駆られて方法論を導き出していた。有機農法が化学肥料や農薬を使わない農法だとすれば、自然農法は土地を耕さず、除草や害虫駆除さえも行なわない農法を指す。日本ではその担い手として福岡正信が有名だけれども、最初に福岡の名前を聞いたのはフー・ファンからだった。
自然農法は、言ってみれば、与えられた土地、環境、状況を調べ、その場所をラディカルに変化させるのではなく、最小限の必然的な関わり方をする方法論である。それは「人工」と「自然」という二項対立の中間的な立ち位置にある。

伊東豊雄がコミッショナーとして企画し、乾久美子、藤本荘介、平田晃久が携わった2012年「第13回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展」日本館展のためのプロジェクト「ここに、建築は、可能か Architecture. Possible here? “Home-for-All”」および岩手県陸前高田市での「みんなの家」の構想から実現までを辿った記録集(TOTO出版、2013年刊)のカバー写真 Photo: Shu NAKAGAWA

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「ミラード・ガーデン」の建築を担当した藤本壮介は、伊東豊雄による「みんなの家」の共同設計プロジェクトに、乾久美子と平田晃久と共に参加する(プロジェクトは2012年のヴェネツィア・ビエンナーレ建築展で発表された)。3.11東日本大震災で地震と津波の被害を受けた陸前高田に被災者のためのコミュニティ・ハウスを作るという計画は、3人の建築家の協働作業の中で、当初思うように進まなかったらしい。そもそも多くの建物の崩壊と津波の被害を受けた場所に、再び建築を作ることの意味はどこにあるのか。それはつまりは「建築とは何か」という原理的な問いでもある。大きな抽象的な問いは答えのないものだ。このコンセプトをめぐって建築のプロセスは停滞する。しかし事の進展は現場のコミュニティ/人びととの協働によって進んだようだ。原理的な建築をめぐる問いの傍らで、実際の場所と人から必然的に導き出された建築。
複数の建築家による協働のプロセスは、個の問題を表出するだろう。伊東豊雄は「個の消失」を提案したらしいが、小さな3人というチームの中で三者の個性を消すことは難しい。むしろ他者との関係の中で「個」がどのように再配置されるのか、そういう問い直しが必要となるだろう。そのプロセスは、ある意味では自然農法の方法論の辿る過程に近いのかもしれない。環境と状況を把握し、個人のエゴを展開するのではなく、「他者関係」の中で必然的に建築のプロセスが決定されていく。

田中さんのプロジェクト「ひとつの陶器を5人 の陶芸家が作る(沈黙による試み)」(2013)から Photo: Wataru SHOJI

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「民藝」というものは、すでに無数に作られていた無名の職人たち、あるいは匿名の人びとによる製作物に与えられた名称である。柳宗悦によるコンセプションを通して、民藝は運動として広く日本、世界へ広がっていった。柳と共に行動した陶芸家の濱田庄司による貢献も大きく、陶芸はその中心的な方法と見なされている。フー・ファン、そしてヴィタミンとの協働で制作されたぼくのプロジェクト「ひとつの陶器を5人の陶芸家が作る(沈黙による試み)」(2013)は、民藝の思想に触れる旅でもあった。リサーチ・トリップの中で、ぼくらは、複数の陶芸家たちによる陶芸の協働制作の可能性を陶芸家たちに問いかけた。もちろん陶芸の制作はときに分業でも行われる。しかしぼくたちは平等な協働を求めた。ひとりの陶芸家が「もし私たちが個を忘れれば、きっとそれは可能である」と言った。実際の記録撮影では、陶芸家たちはコミュニケーションのためにしゃべり続け、むしろ個性がぶつかり合い、最後には不和が生じた。しかしフー・ファンは、その現場を違ったように解釈する。撮影班、録音、キュレーター、アーティスト、コーディネーター、そして陶芸家たち、その撮影の現場にいるすべての人びとが協働の陶芸制作という目的のために集中していた。つまりその場にいるすべての人びとが無心に、自分を忘れて集中する光景がそこにはあった、と。個の消失と集団の生成。このときアーティストは何かを作り生み出す存在ではなくなり、状況の構築を組織する。

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フー・ファンがクラメテルホフを訪れたときに写した「水の庭(ウォー ター・ガーデン)」のイメージ Photo: HU Fang

ホルツァーの農園の中にある池、フー・ファンはそれを「水の庭園(ウォーター・ガーデン)」と呼ぶ。注意深く生態系のために構築されたその池は、そこに置かれている石も木も、すべてが機能的な理由によって配置されている。しかし、フー・ファンは、そこにある種の「美学」を見出す。いわば「機能美」というものがその池にはある。
一方、中国式庭園というものは、本来、ひとつひとつの家にあり、注意深く構築された自然と日々出会うことで、毎日の生活と社会的プレッシャーから人びとが解放されるための場所であった。庭とは、そうやって自分たちの時空間を別の次元から捉えなおす場所である。
ホルツァーの農園と中国式庭園という空間のアーキタイプ。フー・ファンはこのふたつを繋ぐことで、「アートのための空間」がもつ今日的な可能性に言及する。成長の過程とエネルギーの流れに集中する場所。日々の滋養と育成の場所として、他者への配慮を実践するところ。そして感性の修練を行う空間。周囲の環境と断絶しているからこそ、時間と生活を多次元的なものへと開放しうる場所として。

フー・ファンが中国式庭園で写した「借景」のイメージ  Photo: HU Fang

植物が自ら育っていく環境を制作すること。他者との協働から必然的に導き出される建築。匿名的な制作。作らないアーティスト。個の消失と集団の生成。感性と多元性を自ら養うための場としてのアート・スペース。それらはすべて「作者性」、もっと言ってしまえば「個」をどのように捉え直すかという方法論の実践へと結びついていく一連の事柄である。個人の意図を逸れて、まったくの偶然、いや、むしろ必然的な状況に出会う旅でもある。フー・ファンはこのトークのエピソードを、ひとつひとつの旅として語った。確かに旅というものは、「偶然」に出会う行動である。移動のさなか、そのひとの意図の外で、何かを見てしまうこと。目に入った出来事が思考を促し、ぼくたちをまた別のどこかに結びつける。そういえば最近、フー・ファンから人工知能(AI)の話をよく聞く。このトークの最初にもAIの話をしていた。そしてヴィタミンは新しくヴィタミン・アーカイヴというスペースをオープンしている。農業からAIとアーカイヴへ。フー・ファンによる多方向的な会話の「次の一章」は、もう始まっている。[11/30/2017]

文=田中功起[アーティスト]

LECTURER
SPECIAL GUEST

胡昉(フー・ファン)
HU Fang

フィクション・ライター、キュレーター。中国・広州/北京在住。広州「ヴィタミン・クリエイティヴ・スペース  Vitamin Creative Space」および北京「ザ・パヴィリオン The Pavillion」共同設立人・芸術監督。『ドクメンタ12 マガジンズ』(2007年)コーディネイティング・エディター、「横浜トリエンナーレ2008」コ・キュレーターなどとして、さまざまな国際的なプロジェクトに寄与する。著書に、Towards a Non-intentional Space (Vitamin Creative Space; Pap/Pmplt edition, 2016), Dear Navigator (Sternberg Press, 2014), Garden of Mirrored Flowers (Sternberg Press, 2011)など。

プログラム・タイトル:「グローバル時代のアートプロジェクトを担うマネジメント人材育成事業
『&Geidai』国際編:
特別講演会『グローバル時代の芸術文化概論』:
胡昉 フー・ファン『意図なき空間にむけて:今日のアートのための空間における可能性』」

スペシャル・ゲスト・レクチャラー:胡昉(フー・ファン)
モデレーター:住友文彦[東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科准教授]
主催:東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科アートプロデュース専攻
助成:平成29年度 文化庁 大学を活用した文化芸術推進事業「グローバル時代のアートプロジェクトを担うマネジメント人材育成事業 『&Geidai』」
認定:東京藝術大学130周年(公式プログラム)

「浮島(フローティング・アイランド)」の風景、広州  Photo: HU Fang
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