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In Depth

Interview
文=岩田智哉

テクノロジーとともにあるキュレーションの未来

ハンス・ウルリッヒ・オブリストへのインタヴュー

はじめに

オンライン展覧会の今後の可能性について、その展望を幅広く議論することを目指す本展のカタログにおいて、 ロンドンのサーペンタイン・ギャラリーのディレクターである、キュレーターのハンス・ウルリッヒ・オブリストへのインタビュ ーを行った。領域横断的な実践によって展覧会の定義を常に拡張し、また自身も多くのデジタル・プログラムを 実現してきた彼に、オンラインにおけるキュレーションについての話を聞く。

 

展覧会におけるテクノロジーの可能性

――最初にオンライン展覧会、もしくはデジタルにおけるキュレトリアル実践について、お聞かせください。

 

前回お話したのは 1 月の東京でしたが、あれから状況が大きく変わりました。そしてそれによりデジタルにおけるキュレーションの意味について考える時間ができました。一つ明確になったことは、私たちはアートを欲しており、ア ートを体験することを待ち望んでいる、ということです。人々が二次元のディスプレイの前で相当の時間を費やしているという現状があり、私たちはテクノロジーを使うことでいかにこうした状況を乗り越えていけるのかについて考 えることが重要です。私は拡張現実(以下、AR)によってそれは可能になると考えています。また私たちを行動 へと駆り立てるオンラインの展覧会によっても可能でしょう。

 

例えば、最初 1 月に中国で、次いで 2 月から 3 月にかけてイタリアでロックダウンが実施されたとき、『do it』 [*1]の本を持っていた多くの人々がアーティストによる指示を実践しました。これは素晴らしいことであり、ある意味ではロックダウンならではの展覧会だと言えるでしょう。その後私たちは ICI(インディペンデント・キュレーターズ・ インターナショナル)と協働で『do it』のプロジェクトを再開しました。またオーストラリアでは、カルダー・パブリック・ア ート・プロジェクト[*2]によるオーストラリア独自の『do it』を鑑賞できます。私たちは同時にインド、そしてシンガポール版の『do it』にも取り組んでおり、さらにサーペンタイン・ギャラリーでは Google と協働して、自宅に居ながら アーティストの指示を実践できる『do it (home)』のウェブサイトを新たに作りなおしました。このプロジェクトにより、私たちは一方でフランツ・ウェストの彫刻を自ら作ったり、他方ではルイーズ・ブルジョワの作品で、このソーシャ ル・ディスタンスの時代に離れたところから見ず知らずの人に微笑みかけたりするため、『do it』は私たち鑑賞者を スクリーンの外へ連れ出すオンライン展覧会であると言えます。

 

現在のような、1930 年代のルーズベルト大統領時代にアメリカで起きた大恐慌にも匹敵する極度に不安定な状況、そして経済危機においては、私たち皆が誰かのために何かをすることが非常に大切です。それゆえ『do it』はオープンソースなオンライン展覧会の一例であり、二次元のスクリーンを乗り越えてゆけるアイデアと言えるで しょう。

 

ガレージ・ミュージアム・オブ・コンテンポラリー・アート(モスクワ)での『do it』の展示風景(2014/5/17):タチアナ・ドスペホーヴァによるバーナデット・コーポレーションのインストラクションの解釈 Photo: Anton Silenin © Garage Museum of Contemporary Art and Independent Curators International (ICI)

 

また別の例として、サーペンタイン・ギャラリーの 50 周年を記念して行われた 50 人のアーティストによる環境や絶滅に関する問題に対してのキャンペーン・プロジェクトが挙げられます。とても興味深いことに、私たちがプログ ラムを実施するペースを落とし、ビジネス旅行の数を減らし、そしてエコロジーに関するキャンペーンを行うと今年 の 1 月に発表して以来、これらはこの 3 ヶ月でより一層、時代性を反映するものとなったのです。そのため私たちは、人々を行動へと駆り立てるような多くのオンライン・キャンペーンを始めました。そのような意味で、このプロ ジェクトは受動的ではないと言えるでしょう。

 

というのも、オンライン展覧会はエンターテインメントのように、消費主義や単なるテクノロジーの消費に終始す る危険性を持ち合わせているからです。これはナム・ジュン・パイクが早々に気づいたことでもあり、私たちは単なる楽しみとしてのテクノロジーを乗り越えるために、テクノロジーの詩的な可能性、そして知的な領域を解き放つ必要があります。そして私たちはこれをサーペンタインの『Back to Earth』[*3]プロジェクトにおいて実践しました。例えば、ジェーン・フォンダ、ジュディ・シカゴ、スウォーンとともに、私たちは「create art for earth」として、ロッ クダウン期間中のみならず 2020 年を通してアーティストへ環境に関する作品制作を呼びかけ、現在までに 9000 人以上のアーティストがこれに参加しています。これらの作品は「#CreateArtforEarth」というハッシュタグで 全て鑑賞することができ、またジュディ・シカゴはこのキャンペーンに参加しているアーティストによる展覧会のキュ レーションを行っています。

 

アート・キャンペーンというアイデアがテクノロジーなしでは実現しえなかったように、私たちはそのおかげで 9000 人以上のアーティストと関わることができました。また同様に、私たちは 4 月のアースデイのためにオラファー・エリ アソンと一緒にプロジェクトを行いました。鑑賞者はある画像をダウンロードし、そのデジタル画像を眺めたあとで 何もない壁を見ると、燃えている地球の残像が見えるというものです。このようにして、彼は鑑賞者をスクリーンから遠ざけるのです[*4]。今見てきたように、ナム・ジュン・パイクが私に言ったことの核心をつくことを目指して、私 たちは多くのオンラインプロジェクトを行っています。

 

オラファー・エリアソン, 《Earth perspectives》, 2020.(オーストラリアのグレート・バリア・リーフから見た地球)

 

――「テクノロジーの詩的側面」についてもう少しご説明ください。

 

ナム・ジュン・パイクはどのようにすれば技術的機能を詩的に読みかえることができるかを探求していましたが、そ れはシチュアシオニストによる「転用」[*5]の問題とも似たようなものでした。そしてそれは私が 1990 年代にメディ ア哲学者のヴィレム・フルッサー[*6]、そしてフィッシュリ・アンド・ヴァイスと交わした会話へと遡ります。私たちはテ クノロジーについて議論し、私たちはテクノロジーを、それを発明した人が想定した使用方法を転覆させるような 使い方をしないといけないという「転用」のアイデアについて、彼は話してくれました。ナム・ジュン・パイクは 1980 年代、もしくは 1990 年代にこのアイデアをカメラに対して用いており、それは彼がアートの可能性はそれらのデバ イスを使ってその開発者が予想もしなかったことをすることだと考えていたからでした。技術的機能の詩的可能性を解き放つとは、したがって機能の論理を超越することだと言えるでしょう。

 

――あなたが紹介されたプロジェクトは、オンラインで展開されているものと現実世界をつなげているように見えま す。オンラインでの作品公開、もしくは作品の鑑賞体験の可能性についてお聞かせください。

 

状況にもよるので、難しいですね。この前オンラインのアート・バーゼルを見て、今回はいつもより多くの映像作品 が展開されており、とても興味深く感じました。というのもここ数年はアートフェアに行くと、どこも映像作品が少なく、代わりにペインティングが多かったからです。そのため多くの映像作品が今回のオンライン・アートフェアで展示 されていたことは、私にとって好意的な驚きでした。

 

そして昨日の午後、私は「アンダー・ザ・ブリッジ」というマーク・レッキーの作品、そしてジョン・アコムフラによる 1980 年代のイギリスにおける人種差別に対するデモについての映像作品を見ました。特にアコムフラの作品は まさに現状とも共鳴しており、この二つの作品を昨日見ることができたのはとてもありがたいことでした 。また動画作品の鑑賞の可能性について再考するいい機会ともなりました。

 

しかしその一方で、やはり視覚、触覚、嗅覚などの異なるさまざまな感覚に働きかける多感覚的な展覧会環境をオンラインで展開するのは厳しいでしょう。少し例を挙げるだけでも、クー・ジョンアのインスタレーション作品は 木々や地下鉄の駅に充満する香水の匂いといったさまざまな要素から構成されているため、オンライン上で鑑 賞することは厳しいです。そしてこのような多感覚的な環境を作ることに関しては、テクノロジーには限界があると言わざるを得ません。

 

昨年、私はメキシコ出身の映画監督、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥによるプラダ・ファウンデーションでの仮想現実(以下、VR)作品[*7]を鑑賞しました。本作は後日、ロサンゼルスの LACMA(ロサンゼルス・カウンテ ィ美術館)でも展示されました。この作品では、鑑賞者はバックパックを身に着け、靴を脱ぎ、砂の上を歩くことで、身体的なインタラクションが生まれます。そして突然、VR 上でメキシコとアメリカの国境を超える移民の姿が 飛び込んできたかと思えば、警察のヘリコプターが鑑賞者自身に近づいてくるため、気づいたら鑑賞者は床に倒れ込んでいるのです。

 

このように、この作品はデジタルなインスタレーションですが、身体的なインタラクションによって鑑賞者のあらゆる感覚に働きかけるのです。その一方で、映像やオンライン展覧会といった形で、家で作品を鑑賞することは難し いでしょう。そのため、展覧会においてアーティストがテクノロジーを用いて作品を展示するとき、彼らは没入的で 多感覚的なインスタレーションに取り組んでいるということ、そしてやはりそれをオンラインで再現することは難しいと いうことを私たちは忘れないようにしなければなりません。

 

その一方で将来的な複合現実(MR)の可能性を信じています。イニャリトゥの作品では、まさに鑑賞者自身が難民や移民と同じ状況に置かれ、またそれゆえに鑑賞者へ大きな共感の念を与えているからこそ、彼の作品 は興味深いのです。そうした反面、VR を使った展示ではゴーグルによって、鑑賞者は多感覚的な空間から、そ して他の人々から隔絶されてしまいます。そのため、私は AR により大きな可能性を感じています。

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ, 《Carne Y Arena》, 2017. 作品鑑賞中の様子. Photo credit: Emmanuel Lubezki. Courtesy Fondazione Prada.

 

私はいま王立公園であるケンジントン・ガーデンズにおり、ここではヤコブ・クスク・スティンセンの AR 作品が体験 できます。花、木々、空、人々の歩く姿と同時に、スマートフォンで我々サーペンタインと Google の共同アプリを開くだけで、画面の中で 3D のヴァーチャルな蝶やヴァーチャルな建築を見ることができます。これにより公園での体験に別の体験が重ねられており、私はこうした AR のキュレーションに大きな可能性を感じています。しかし先程話したように、私たちが家でコンピューターのモニター画面から得る経験は決して展覧会の代替にはなりえな いでしょう。

 

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ, 《Carne Y Arena》, 2017. 作品鑑賞中の様子. Photo credit: Emmanuel Lubezki. Courtesy Fondazione Prada.

 

――フィジカルな展覧会における多感覚的な経験に代わるような、オンラインでのペインティングや彫刻といった 作品の体験は可能だと思いますか?

 

可能性を増やしていくことが重要だと私は思います。そしてそれは私にとって「二者択一」という考え方ではありません。レガシー・ラッセルによる「グリッチ・フェミニズム」[*8]という素晴らしい本に私は関心を持っており、 実際これは自分にとって今年一番興味深い本です。この本は全ての二元論を超えていくことに関して述べてい ます。例えば展覧会について考える際、私たちは無意識にフィジカル、もしくはヴァーチャルな展覧会を想定する ように、テクノロジーとアートは二項対立なものだという考えがあります。流動的な時代である現代において、私は展覧会制作についてもこのような二元論をどんどん超えていくべきで、そこにこそ大きな可能性がある気がしま す。このような流動的な座標を持つ現代において初めて、私たちは「二者択一」の代わりに「どちらも両方」を取 ることができるのです。

 

私たちがサーペンタインで行ってきた企画は多様なため、それらを振り返ることでさまざまな可能性を見つけら れると思います。例えば、イアン・チェンによる《BOB(Bag of Beliefs:信念の容れ物)》という人工知能により作 られた作品について考えてみましょう。この作品は私たちが今まで展示した作品の中で、作品それ自体が意識を持ち生きている、ただ見られるためにそこにあるのではなく作品が生き物として存在する、という鑑賞体験がで きる初めてのものでした。そのため生き物と交流するという点では、どちらかといえば美術館に行くというよりは動物園に行くような感覚に近いでしょう。しかしそれは同時に、人々が同じ空間に集まるという慣習とも大いに関係しており、鑑賞者はその中でそれぞれにデバイスを使い、ギャラリースペースで BOBと触れ合うのです。

 

別の例として、私たちがヒト・シュタイエルとともに行った、公園でのアプリを使った実験[*9]が挙げられます。グ レンフェル・タワー火災という悲劇が起こった際、彼女はロンドンの近隣で生じている不平等の実体を目の当たりにしました。そこでは一部の人々が公共住宅の権利を所有する一方、近隣では厳しい生活状況が広がってい たのです。東京も同様だと思いますが、グローバルな都市では極端な不平等が生じているはずです。彼女は批 判的にこのような都市における不平等を私たちに意識させ、それを可視化させるためにテクノロジーを使うのです。

 

これは興味深いことに、1920 年代にパウル・クレーが「アートは目に見えないものを可視化させるものだ」と述べ ていたのと重なります。彼女はしたがって、このような都市に潜む不平等を可視化させますが、これはテクノロジー によって可能になったことの一つです。

 

またテクノロジーの別の側面として、言うまでもなく記録が挙げられます。親友のクリストが亡くなる 10 日ほど前、私は彼と AR作品について話しました。《The Mastaba》は数え切れないほどの樽が積み重ねられたパブリッ ク・モニュメントで、2年前に数ヶ月間ケンジントン・ガーデンズに設置されました。クリストは私たちが交わした最 後の会話の中で、この作品のAR による記録をこの夏に展示することを許可しました。彼は亡くなってしまったた めもうここにはおらず、またその作品も展示期間後にすでに撤去されてしまったためもうここにはありません。しかし その記憶はここにあります。公園にいる人々が、自らのデバイスによってクリストの作品の AR 記録を 3D で鑑賞 できるのはまるで魔法のようです。このように「記録」も、テクノロジーによる別の可能性の一つと言えます。

 

2019 年にあった興味深い例を一つご紹介しましょう。私たちはヤコブ・クスク・スティンセンによる AR 作品、そし て石上純也によるフィジカルなパビリオンを展示しました。この両者を組み合わせた展開によって、鑑賞者は公園内のデジタルパビリオンとして自らのスマートフォンでヴァーチャルな蝶を見ながら、一方で石を素材とするフィジ カルなパビリオンも同時に体験できました。これは私にとって「二者択一」を超えることであり、二元的な構造を内包する VR に対して、AR はこの二項対立構造を超える重要な可能性を持っています。

 

以前私がキュレーションを手掛けたザハ・ハディッドによるドローイングの展覧会[*10]を例に見てみましょう。この展示後の 2016 年に彼女は他界したため、本展覧会は彼女に捧ぐ催しとなりました。ハディッドは常にドロー イングを VR で展開したいと考えていたため、私たちは Google と協働してそれらを VR 作品として展示しました。 しかしそこにはおかしな二つの世界の切り替えがありました。というのも展覧会を見に来た人々は、アーカイブのド ローイング作品を見た後ゴーグルをつけて椅子に座り、突如ヴァーチャル・リアリティの世界に入り込むのです。フィ ジカルな展覧会、およびヴァーチャルな展覧会のどちらにせよ、両者の要素を同時に持つことができるため、私は AR を気に入っています。

 

―― AR がリアルとヴァーチャルを同一線上においてつなぐことができるというのはとても興味深いですね。   

 

そして展覧会は決してとどまることがありません。テクノロジーの時代の現代において、アイデンティティが変わらないことはありえず、これはすべてにおいてカギとなります。だからこそ私はテクノロジーの可能性に対して大きな期 待を寄せているのです。テクノロジーが展覧会を代替することはありえないけれど、大きな可能性を有していると 私は思います。ある意味では、過去のある時点においてアート作品は限界を持ったオブジェクトでした。例えば 映像はそれ自体完成されたものであり、繰り返し再生できます。彫刻、ペインティング、写真も同様です。それ に対して、これらの AI や AR 作品は完成されたプロジェクトではなく、またそれゆえに常にそのアイデンティティが 移り変わっていくものだと言えるでしょう。

 

アイデンティティは変化し、壊れ、進化するもので、決して繰り返さない。これはエドゥアール・グリッサン[*11]の 考えにも通じます。グリッサンはかつて、「アイデンティティは決して静的なものではなく、常に動的なプロセスであ る」と述べました。この意味ではアートはかつて非常に静的なアイデンティティを持ったものであったと言えるでしょう。 そしてレガシー・ラッセルによるグリッチ・フェミニズムのアイデアは、サンドラ・ペリーやイアン・チェン、その他私たちが 言及した多くのアーティストをうまく説明できるのです。

 

グローバル時代におけるデジタル・キュレーション

――エドゥアール・グリッサンの思想に基づく、あなたのグローバルとローカルの考えについてお話を伺いたいで す。物理的な意味での地政学的な場所性から解放されたオンライン空間は、同じフォーマットでありながらも非 -場所として鑑賞者がそれぞれローカルな文脈に結びつけられる形での体験を可能にするように思われます。 (『do it』はフィジカル・オンラインの両方の意味でこれを実現しているように思います。) こちらについてあなたの考えを伺えますか?

 

この質問はすぐさま、アイデンティティの問いへとつながります。先程お話ししたように、定まったアイデンティティを 持たず常に変化し続ける存在としての作品。それはほとんど生き物のようでもあり、そのような意味で実際に作 品は生きていると言えるでしょう。グリッサンはこれについて多くを語りました。というのも彼自身マルティニークの出 身で、アイデンティティが周囲の島々との対話による変化に常にさらされており、決して同定されることのないカリ ブの島々からなる群島をその出自として持っているからです。それは必ずしもアイデンティティの喪失を意味する わけではなく、むしろアイデンティティはより豊かに、そして複雑になっていきます。

 

これはまたローカルとグローバルの問題についても関係してきます。なぜなら彼は、私たちが抵抗しなければなら ない画一化されたグローバリゼーションの時代に生きることについて多くを述べているからです。また同時に、同様 に私たちが抵抗しなければならないものとして、このような画一化されたグローバリゼーションに対する反動、すな わち新たな人種差別やナショナリズム、ローカリズムについても彼は言及しています。しかし彼が述べる「世界性」[*12]のアイデアは、あなたのテクノロジーについての質問とも関係しています。というのもテクノロジーはこの画一 化されたグローバリゼーションの核となるものであり、またそれを加㏿させるものでもあるからです。世界がグローバ リゼーションを経験するのは現在が初めてではないですが、しかしこのテクノロジーの加㏿度的な発達は私たちが 経験してきたグローバリゼーションの中で最も極端なものです。したがって、私たちがテクノロジーを用いるときには グリッサンの「世界性」の考えを決して忘れず、そして新たなナショナリズムやローカリズム、その他の反動に対して 抵抗するために、グローバルな対話を持てるようこのテクノロジーを利用することが極めて重要なのです。

 

さらに、画一化されたグローバリゼーションに抵抗すると同時にそれに対する反動に対しても抵抗するという点 で、世界性はとても素晴らしいコンセプトです。したがって私たちがテクノロジーを用いるときはいつでも、いかにテ クノロジーによってローカリズムや画一化されたグローバリゼーションではなく、世界性を生み出すことができるかに ついて考えることが大切です。グリッサンによるアイデアは、このようにテクノロジーとも関連しているのです。

 

エドゥアール・グリッサンによるドローイング

 

もうひとつ私たちが常に考えなければいけない重要なこととして、参加性が挙げられます。ティム・バーナーズ= リーが WWW(ワールド・ワイド・ウェブ)を全ての人々のためのものとして考案したにも関わらず、実際に全ての 人々がデバイスを持っているわけではないためアクセスできない人がいる、ということを忘れてはなりません。またこ れは全ての人が美術館へ行くことができるわけではなく、したがって私たちは常にこのようなテクノロジーを持たな い人々がいかにして展覧会にアクセスできるかについて考える必要性へとつながります。我々サーペンタインは、アプリを提供することで人々が各自のデバイスでそれをダウンロード可能にするだけでなく、デバイス自体の貸し 出しも行っています。とりわけ現在では、たとえ美術館が再開したとしてもロックダウンに伴いソーシャル・ディスタン スが保たれなければならず、また人々はスクリーンやヘッドホン、VR のヘッドセットなど美術館にあるものを触りたがらないでしょう。そして人々はより自身のデバイスを使い、さらにそのために高い機材を選ぶ人も出てくるかもし れません。しかし高齢、もしくは機材を購入できない鑑賞者がいることを決して忘れてはならず、また誰も仲間は ずれにしないよう彼らにデバイスを貸すようにしなければなりません。

 

――先程お話されていたように、私たちは現在 COVID-19 の影響もあり、ナショナリズムが復権し、トランスナ ショナルな連帯が危機にある状況に直面しています。そしてこれに対して私たちは抵抗していかなければなりま せん。このような状況において、あなたは今までと同様のやり方でビエンナーレやトリエンナーレといった国際展を 展開することが可能だと思いますか? またトランスナショナルな展覧会がこのような状況下でどのような役割を果たすことができると思いますか? そしてこのような文脈において、オンラインというプラットフォームはどのように機 能することができると思いますか?

 

ある意味では、アートはあらゆる境界を超えていくような対話をするものとして存在してきました。アーティストは 異なる複数の場所の間、もしくはそれらに同時的に属しており、その意味ではアートは常にナショナリズムに抗す るものなのです。そのようなトランスナショナルな対話を常に持ち続ける方法を探すことは大切であり、『do it』は その一例だと私は考えています。全ての『do it』はローカルであり、オーストラリア、シンガポール、そしてイギリスや アメリカなど、世界各地で開催されてきた一方、同時に全てつながっているのです。この展覧会はグローバルな 対話でもある一方、作品は必ずしも輸送される必要はなく、またローカルのリソースを用いて各地で実現可能 なのです。私たちはこのようなモデルをもっと見つけなくてはなりません。

 

他にも私は『It’s Urgent!』というポスターのプロジェクトをキュレーションしました。スイスの LUMA ファウンデーショ ンでは 130 種以上のポスターが展示され、さまざまな都市へと巡回するたびに、地元のアーティストがポスターを どんどん追加していきました。この展覧会は現地で作品をプリントするため非常に経済的である一方、これらの ポスターはそれぞれ、現在世界で喫緊となっている政治的状況に対して反応しています。そのため、『It’s Urgent!』は毎回それぞれの土地に対して働きかける点でローカルである一方、それと同時に成長し続け、資源 を無駄にしない展示であり、また鑑賞者はスマートフォンでポスターをダウンロードし自宅で印刷できるため、アパ ートメントでも展覧会が可能なのです。ここで再び、フィジカルであると同時にデジタルでもあるという点で、「二 者択一」の代わりに「どちらも両方」なのです。

 

私の意見としては、ビエンナーレ、もしくは大規模な展覧会が今後どうなるかについて述べるには、少し時期が 早すぎるように思います。しかし環境への配慮から飛行機での移動は確実に減り、代わりに電車や鉄道での移 動が増えるでしょう。そのため私たちは地域の鑑賞者についてもっと考える必要があります。世界中からビエンナ ーレのために飛行機を使う人は減り、ローカルとグローバルにおける交渉が増えるに伴い、ローカルな鑑賞者の 重要性が増すと思われます。おそらく大規模な展覧会については、電車や鉄道で訪れる地域に根ざした鑑賞者が増えるのではないでしょうか。

 

Luma Westbau(チューリッヒ)での『It’s Urgent! – Part III』の展示風景(2019):ハンス・ウルリッヒ・オブリストによるキュレーション
Photo: Stefan Altenburger, Zurich

 

―― あなたはコロナ後、すなわちポストコロナ、もしくはコロナとともに生きる時代のアートはどのようになっていくと 思いますか?

 

私はパブリック・アートがより重要になると思います。ソーシャル・ディスタンスの時代では、人々はより屋外に出た くなるでしょう。実際屋外で多くの時間を過ごす人が増えており、その結果パブリック・アートの重要性が増すと思 われます。また最近ではモニュメントに関する議論も多く交わされており、植民地と関係しているため現在は取り 壊されてしまったような、問題含みのモニュメントに対する批判や攻撃が加えられています。そのため現在、私た ちの時代におけるパブリック・アート、そして新しいモニュメントとは一体どのようなものなのかについて考えることは とても興味深いことでしょう。もしかしたらそれはモニュメントではなく反モニュメントかもしれません。どちらにせよ私 はパブリック・アートの重要性が増すように思います。

 

またポストコロナについては、私が書いたニューディール政策についての文章[*13]とも関係しています。このよう な極度に不安定な状況や経済危機において、私たちは寛容さを持つこと、そしてとりわけアート、アート的思考 において、新しい形の寛容さとは一体どのようなものなのかについて考える必要があります。そうした意味で、改めて『do it』や『Take Me (I’m Yours)』[*14]はともにオープンソースであり、このようなモデルがより必要になって くるでしょう。私はいかにアートが寛容になれるのか、美術館や展覧会が寛容になれるのかについてさらなるモデ ルを考えていきたいと思っています。そしてまた、いかにして美術館での展覧会を超えて、アートを社会の中に取 り入れることができるのかについても考えていければと思います。

 

加えて、私たちは今後のカギとなる参加性についてより深く考えていく必要があります。新型コロナにより私たち の社会における不平等は今まで以上に拡大しており、そうした中であらゆる側面において、より参加しやすいア ートのあり方を考える必要があるのです。

 

――今後屋外での展覧会が増えるというのはとても興味深いですね。

 

はい、私はそう思います。現在私自身も多くの時間を公園で過ごしており、公園が私のオフィスになりつつありま す。実際今日のインタビューも、ご覧の通り公園から行っています。

 

――インタビューもそろそろ最後となりました。以前インタビューを行った際、あなた自身の未実現のプロジェクト についてのお話を聞きました。今回はデジタル、もしくはオンラインにおける未実現のプロジェクトがあれば教えて 下さい。

 

おもしろい質問ですね。私たちは現在、ダニエル・ビルンバウムと一緒にオンライン上でのビエンナーレを計画して います。ビルンバウムは現在 Acute Art のディレクターを務めており、私たちはサーペンタインにて、VR 要素と SF 映像によるツァオ・フェイ(曹斐)のプロジェクトを共同で実施しました。またビルンバウムと一緒に、異なる複数の 場所で同時的に開催されるデジタルのビエンナーレを構想し、今年の夏にそれに取り組む予定です。未実現の プロジェクトというとそのようなところでしょうか。あとは AR による大きなグループ展、いわば AR ビエンナーレを開催 して、世界中の公園で作品を鑑賞できるようにしたいですね。

 

サーペンタインでのツァオ・フェイ『Blueprint』の展示風景写真(2020年3月4日〜5月17日、Photo credit: Gautier Deblonde)

 

―― いまお聞きしたプロジェクトは今日お話頂いたアイデアを全て結びつけたようなものですね。デジタル・ビエン ナーレを日本でも鑑賞できることをとても楽しみにしております。本日はどうもありがとうございました。 

 

どういたしまして。

 

 

[1] 『Do it』は 1993 年以来、ハンス・ウルリッヒ・オブリストが実施しているプロジェクトで、2020 年現在におい て全世界の 165 以上の都市で開催されている。この展覧会はアーティストによる「DIY」の指示から構成される。
https://artsandculture.google.com/project/do-it

 

[2] カルダー・パブリック・アート・プロジェクトは、国際的な作家の参加する、オーストラリアを拠点としたパブリッ ク・アートに関する私設機関である。1960 年代にジョン・カルダーにより設立されて以降活動を続けている。
http://doit.kaldorartprojects.org.au/

 

[3『Back to Earth』は、アーティスト、思想家、科学者といった学際的な分野における専門家から構成さ れるプロジェクトである。本プロジェクトは、環境の危機に反応してアーティスト主導によるキャンペーンを開始することを目的とする。
https://www.serpentinegalleries.org/whats-on/back-to-earth/

 

[4]『Earth Perspectives』は、サーペンタイン・ギャラリーのウェブサイトにて公開された、オラファー・エリアソン によるオンラインプロジェクトである。
https://www.serpentinegalleries.org/art-and-ideas/back-to-earth-campaign-earth perspectives/

 

[5]  ヴィレム・フルッサー(1920-1991)はチェコ出身の哲学者である。ニューメディアおよびその社会への影響に関する分析で知られる。

 

[6] 「転用」は、シチュアシオニストにより構想されたアートの実践であり、作品の外観を創造的に変容させることで作品自体を別のものに変えるものである。
(“détournement,” Oxford Reference, accessed September 10, 2020,
https://www.oxfordreference.com/view/10.1093/oi/authority.20110803095713704)

 

[7]  アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 《CARNE y ARENA》
http://www.fondazioneprada.org/project/carne-y-arena/?lang=en

 

[8] 「グリッチ・フェミニズム」は、2020 年 9 月 29 日に出版予定の書籍である。文筆家、キュレーター、そして アーティストでもある著者のレガシー・ラッセルは、オンラインとオフラインの間の空間に存在する曖昧な身 体へと言及しながら、フェミニズムの文脈において「グリッチな(欠陥のある)身体」というコンセプトを提示する。彼女の主張は、社会学者・ソーシャルメディア理論家のネイサン・ユルゲンソンによって提唱された「デ ジタル二元論」に対する批判に基づいており、これはオンラインとオフラインの自我を区別するものである。 この書籍では、二つの互いに区別されたものではなくひとつづきの連続としての自我を示すため、「IRL
(“In Real Life”、現実生活において)」の代わりに「AFK(“Away From Keyboard”、キーボード から離れて)」という用語の使用を提唱する。

 

[9] 『Actual RealityOS』は、データの視覚化のためのオープンソースのデジタルツールであり、AR、没入的な 音響、データ収集の戦略、モバイル端末用のマッピングを全て集めたものである。
https://www.serpentinegalleries.org/whats-on/hito-steyerl-actual-reality-os/

 

[10] 『Zaha Hadid: Early Paintings and Drawings』 (2016-2017)
https://www.serpentinegalleries.org/whats-on/zaha-hadid-early-paintings-and-drawings/

 

[11]  エドゥアール・グリッサン(1928-2011)は、マルティニーク出身のフレンチカリビアンの詩人、文学批評家で ある。群島に生まれ育った自身の背景から、「世界性」のコンセプトを中心とした文化的多様性を持つ 世界のヴィジョンを提唱した。ハンス・ウルリッヒ・オブリストは彼の考えから多大な影響を受けており、以下 のようにも述べている。「毎朝十五分間グリッサンの著書を読むのが私の儀式だ。彼の詩や小説、戯曲、 理論的エッセイは、私が毎日使うツールボックスである。」(ハンス・ウルリッヒ・オブリスト『キュレーションの方 法−オブリストは語る』.中野勉訳, 2018 年(原著:2015 年), 河出書房新社, p.25.)

 

[12] 世界性はエドゥアール・グリッサンにより提唱されたアイデアで、差異を分断と捉えるのではなく、代わりに私たちを結びつけるものと見る考え方である。世界性のコンセプトにおいて、私たちは他者同士を結びつけるつながりのネットワーク、すなわち「関係の詩学」の中に編み込まれている。

 

[13] 「ハンス・ウルリッヒ・オブリストが提唱する「新しいニューディール政策」。新たな社会的想像力の時代に 向けて」. ウェブ版美術手帖, https://bijutsutecho.com/magazine/series/s25/21806, (2020 年 8 月 15 日アクセス)

 

[14]『Take Me (I’m Yours)』は 1995 年以来行われている展覧会のシリーズ。鑑賞者は作品に触れたり、 また作品の一部を家に持ち帰ることができる。 https://waysofcurating.withgoogle.com/exhibition/take-me-im-yours-serpentine

 

 

 

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