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In Depth

Interview
文=幅谷真理

micro-voice:すくいとり、抽出する

——安藤孝浩インタヴュー

《バイオフォトン》(2013、六本木アートナイト)

 

植物の種子が発芽するとき、私たちの目には見えないわずかな光を発する。アーティスト安藤孝浩は、この光「フォトン」を作品の中に落とし込む。肉眼では確認することができないが確かに存在している小さな光を通して、私たちは小さなものの声に耳を傾けることができるのではないか。科学技術が発展し続けている現代において、安藤はこの先に何を見据えているのだろうか。今に生きる私たちがすべきことのヒントが現れているように感じ、安藤へのインタヴューを行った。

 

◆ミクロなものへの解像度を上げることの必要性

 

──作品の中で植物が放つ光「フォトン」を扱っていますが、制作する中で気がついたこと、大切にしていることはありますか。また、今これらの作品を扱う意義は何でしょうか。

 

安藤:目には見えない微細な現象を特殊な装置(光電子増倍管)で捉えていると「ジーン」として、とても静かな気持ちになれます。それは昔、お婆ちゃんの声を聞いていると意味もなく「ジーン」とした記憶と似ているように思うのです。お婆ちゃんの言葉の意味よりも声のトーンにうっとりしていたというか。その時に感じた「ジーン」とした感覚。バカかもしれないけれど植物と会話できるのではないかと、誰もやっていないことへの勝手な期待感があって植物と向き合っています。漠然と何か発見できたらというワクワクした気持ちで制作に取り組んでいますが、芸術も科学も、モノの見方を深めたり拡張する力があるように思います。作品を通して新鮮なモノの見方に貢献することが、今は一番楽しいです。

 

──「フォトン」を筆頭とした周りの小さな生きものや仕組みに注目することとなったきっかけはどういったことでしたか。

 

安藤:細胞の仕組みなど、ミクロなものへの興味は元々強かったのですが、ある旅行を機に作品へ強く現れてきたと思います。それは妻と冬の京都・奈良を旅行中の出来事でした。岩船寺から浄瑠璃寺石仏めぐりの最中に歩き疲れ、静かな山あいの田んぼのあぜ道で休息をとりました。日差しが少しずつ田んぼに差し込んできて、茶を飲み、暖を取っていると、あまりの静寂さにしばし佇んでいました。そこには風もなく、私たちしかいません。静かすぎて耳の中の圧を感じているような、そしてキーンという音を聞いているようでもありました。そこへ「チュプチュプッ」と凍った田の土が溶ける微かな音が聞こえたのです。あまりにも微かな音でしたが、聴覚が研ぎ澄まされたのか、とても確実にその音のする土に触れているくらい、リアルに感じ取ることができました。

 

その音を聞いたとき、自分の意識が山あいの自然と一体となったような感覚を覚えました。例えるならば、微細な音の発生源の振動をその周りの景色の空気を伝達して私の耳の内側の空気を確かに振動させている、音で触っているような、とても静かで心地よい経験でした。

 

大げさかもしれませんが、この感覚的な経験は私たち人間が自然に対してどのように接するべきかを示唆してくれていると直感しました。また、「自然界の微かなささやきのようなものを見つめて抽出し、形や色に置き換え、今の世の中に投影することで何か見えてはこないだろうか」と、芸術を通じて世の中に伝えたいことを考え直すきっかけとなりました。

 

現代文明の中で自然を見つめる時、様々なノイズやフィルターがかかり、地球そのものの自然の解像度が下がって見えているのではないのかと感じることが多々あります。その解像度を上げるためにも、自然界の混じり気のない極シンプルなささやきを抽出する必要がある。足し算から生まれる形ではなく、引き算をすることで残った骨格のようなもの、その抽出された形や色を現代へ投影すると、複雑化している世の中に一石を投じることになるのではないかと思います。

 

《バイオフォトン アレロパシー》(2007、NTTインターコミュニケーションセンターICC)

 

──私たちの生活の中に潜む〈自然〉は現在、どのような形で存在しているとお考えですか。

 

安藤:都会的な生活の中で自然を感じ取ることは難しいと思います。皮肉なことですが、異常気象や自然災害などで私たちの快適に守られた生活のリズムが崩れた時に、自然を強く感じることがあります。またささやかではありますが、アスファルトの亀裂やタイルの目地から生える雑草などを見ると、自然の逞しさを感じます。風呂場のカビや生ごみの腐った匂い、冬場の窓枠の結露など、視点を狭めれば自然を感じる要素はたくさんあるのだと思います。カラスがゴミを漁る、ムクドリの群集などもそうかもしれません。

 

これら動物の振る舞いは私たちの日常にとっては迷惑な行為ですが、自然界からすれば私たちが勝手に土をアスファルトで埋め自然との線引きをし、自然との共存よりも自らの快適さを求めた結果としての歪みなのだと思います。しかしその歪みこそが都会生活の中で自然を感じる要素の一つになっているとも言えます。最近あまり目にしませんが、動物の死骸、その悪臭や土に還る様子なども、自然と生死を強く感じる機会となっていましたが、そういう機会は減っています。

 

◆人間と自然を結びつけるメディアとしての芸術作品

 

──では、その離れてしまった自然をもう一度日々の中に取り戻そうとした時、芸術はどのような可能性を秘めているとお考えでしょうか。

 

安藤:東京藝術大学の助手時代に一度だけ停電がありました。季節は夏の昼間であったように思います。灯が消えて暗いということよりも、電子機器の音がなくなり一瞬にして静寂が訪れ、音のない空間に驚き、しばらく呆気にとられていました。

 

日常的な空調の音やパソコンなどの各種電気機器の雑音を普段当たり前のように聞いていたので、これらの音がとてもうるさいと感じることはありませんでした。電子機器の雑音がなくなったことで、遠くから聞こえてくる学生の声が聞き取れました。構内には古くからの大木が沢山あり、風のそよぎで木々の葉の音も聞こえてきました。学生の声、木々の音、上野の森の広さを、それらの音の響きで感じられるほど静かなひと時でした。停電の間だけですが、上野の森の自然を感じられたわけです。例えば昼休みの間だけ電気を切る等でも、自然を取り戻す機会になるのではないかと思います。芸術家が各々の感性を持って自然を取り戻すアイディアを世に問うことで、状況を変えられるかもしれません。

 

北斎は《神奈川沖浪裏》で、富士を背景にうねる波のカオスを美しくデザインしました。芸術家は複雑な現象を明達な感性を持って簡略化し、美しいデザインへと昇華させるとともに自然の解像度を上げ、私たちの視力を高めてくれます。また、物理学者の小柴昌俊先生は目には見えない超新星爆発時のニュートリノを検出し、私たちの日常では気づくことが不可能な宇宙のダイナミズムを証明し、広大な宇宙との繋がりを感じさせてくれました。芸術家も科学者も一般的には些細とされる出来事に対しても敏感な感受性を持ってして何かを表現しようとします。

 

本来、芸術も科学も私たち人間がこの地球という自然の中でどのように生きるべきなのか、それを知るための博物学的な一端にすぎないのだと思います。人間がこの地球、強いては宇宙に住まう以上、自然を見つめることは重要なことで、それは今も変わらないでしょう。そして、そこから学んだことを人間の利益のみを追求しない行動にすべきだし、その行動を促すのが芸術であり、学問であることが望ましいのではないかと考えます。

 

芸術の世界で生きる者として私個人が言えることは、自然に素直に向き合い、率直に感じることだと思っています。自然の猛威に恐れを感じたり、美しい風景に感動したり、生命の息吹に触れ喜びを得るなど、私たちが自然から受信したものをストレートに受け止め、そこから何かを発見をしなければならない。その発見をわかりやすく明快に表現する必要がある。そのような態度で表現された芸術作品は、私たちと自然を結びつけるメディアとして、未だ私たちが知る由もない未知なる自然の奥行きを垣間見せることになると思います。

 

このことによって私たちはどのように生きるべきかを常に思考し、必要であれば方向転換をする必要がある。まだまだ私たちは自然を理解してはいないのでしょう。森羅万象、自然の懐は、知れば知るほどに「知らぬことを知る」ことになります。何かの発見は、簡単に考えていた私たちに新たな問題を投げかけてきます。私たちはもっと深く自然を理解する必要があります。今までの理解は今後さらなる理解をするための準備をしているにすぎないのですから。自然から離れるのではなく、常に意識しなければならないと思います。

 

《バイオフォトン》(2013、六本木アートナイト)

 

──最後に、安藤さんが作品を通じて、未来を生きる私たちに伝えたいことをご提示ください。

 

安藤:私たちは本当に進化しているのか? ホーキング博士は「人類は100年のうちに滅びるだろう」と予測しているそうです。その原因のひとつとして彼は戦争をあげています。自然環境の破壊や天変地異のリスクもあげていますが、人類が人類を滅ぼすのだとしたら、このように滑稽な話はありません。

 

私たちの知恵はとてつもなく好奇心に満ち、科学技術の進歩など目まぐるしく発展していますが、一方で私たち(スポーツ選手などのアスリート等の特殊例は除く)の身体を例にとれば、自然に適応する能力は低下しています。体毛はないに等しく、他の動物に比べれば寒さに弱く、退化しています。そのぶん衣類などでカバーしていますが、衣類を生産するうえで大量のCO2を大気にばらまいています。

 

私たちは豊かな生活のために物理的な進化の速度を急速に高め、より守られた環境作りを推進してきました。私たちは先人たちの知恵と技術のおかげで、過酷な自然との格闘から身体的な自由を獲得してきています。このことにより自由な時間、創造できる余裕が生まれました。この恩恵は芸術の世界にも芸術の解釈の幅を飛躍的に拡張させ、自由な捉え方を同時多発的に可能にしています。私たちの身体が本来厳しい自然環境から距離を取ることで思考する余裕が生まれ、脳や身体を活性化し、未来を考えることができるのだと思います。

 

しかし一方で、人間の繁栄のための物理的な進化は地球規模の環境からすれば、その自然のサイクルから逸脱し、環境汚染などの問題が露出してきています。また、先に述べた、ホーキング博士が懸念するような問題は、人間の精神的な進化の遅れ、むしろ全く進化していない現状を突きつけられているのです。

 

現在の世界経済など、私たちの生活の基礎となる社会は複雑です。このような経済優先の社会の中で精神的な進化を望むには何が足りないのか、あるいは足ることを知るのか。しかし人間の本能的な欲望をコントロールする必要があるのでしょう。人間が二足歩行で地面から上半身を自由にし、両手を自由にできたことから様々な道具をあみだし、脳を進化することへ一歩踏み出した。このドラマは今後どのように進んでゆくのか。私たちは考えなければならない。

 

私たちの本能的な欲望が脳を進化させ、そのエゴが何かを破壊してゆくことと同時に、その優れた脳は一方では、宇宙の果てまでも観ようとする学問、一元的な価値観から自由に解放してくれる芸術、「人はなぜ生きるのか」とか「どのように進むべきなのか」を問いかける哲学などを生み出してきました。これら私たち人間の思考が「叡智」と呼ぶに相応しいものとなるには、もっと深く世界を見つめ、自然を理解し、人を知る必要がある。私たちの未来と自然(宇宙、地球)の未来が同じくあるためにも。真に創造と呼べるものをめざして、努力する必要があると思います。

 

[インタヴュー収録日:2018年1月31日]

文=幅谷真理(国際芸術創造研究科 修士課程)

*本インタビューは授業「芸術編集学」の一環として実施しました。

 

 

《micro-voices:〈小さきものたち〉の声》

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