In Depth

Special Lecture
特別講義

後小路雅弘
「東南アジアの『美術』の歴史」

2017年7月14日開催
会場=東京藝術大学 上野キャンパス 住友研究室

国際芸術創造研究科アートプロデュース専攻では、住友文彦准教授による「アートプロデュース概論」のゲスト講師として、美術史家で九州大学大学院人文科学研究院教授の後小路雅弘氏をお迎えして、「東南アジアの『美術』の歴史」と題し、およそ90分にわたる特別講義を行っていただきました。
昨今、東南アジアの同時代美術が紹介される機会はかつてより増えてきましたが、その一方で、1980年代以前の近代美術についてはいまだ紹介されることが少ないことを踏まえ、講義は、主に後者についてのお話となりました。
講義はまず、一枚の絵から始まりました。《唐官婦三人図》(19世紀)と呼ばれるその絵には、西洋の婦人3人と赤子に加え、奴隷的身分にあると思われる東南アジアの女性が描かれており、ジャワ人を描いた最初期の絵画の一枚と推定されています。確かに描かれているのに、絵画の表題にも登場しない女性……。いったい東南アジアの「美術」とは、どんな歴史を辿って形成されてきたのでしょうか?
「東南アジアの〈美術〉の歴史を学ぶということは、たんに『東南アジア』という『ひとつの地域の美術の歴史を学ぶこと』にとどまりません。私たち自身の〈知〉の構造を考察し、〈美術〉それ自体を問い直すことを意味します。〈私たち〉とは、誰なのか? そして、どこにいるのか? いわば〈自分自身〉と出会うための問いに、私たちを導く問題なのです」。
「私たちは、なぜ、東南アジアの美術を知らないのか? なぜ関心がないのか? たとえばフランスの美術については、細かな点まで多くを知っているのに。重要ではないから? 知る必要がないから? では、なぜ、知る必要がない、と思うのか? 私たちが、あることを知らないのは、それを知りたくないからです」。
ここで後小路先生は、内田樹の『寝ながら学べる構造主義』からの一節を引用しました。「無知は、たんなる知識の欠如ではなく、『知らずにいたい』という努力の成果。あることを知らないというのは、それを知りたくないからです」。
後小路先生はこう指摘します。「私たちが、ある美術作品を知っている、あるいは好むのは、自由で主体的な選択の結果ではなく、自分が属する社会集団によって、そのように選択させられている傾向がある。普遍的な〈正しさ〉はなく、普遍的な〈美しさ〉もない。いずれも相対的なもの。ある社会集団にとって『美しいもの』が、他の社会集団にとって『美しい』とは限らない。ある特定の特権的な社会集団(=西欧)の〈美しさ〉が、普遍的なものとして、世界を覆い尽くしたのが、〈近代〉という時代だったと言えるでしょう」。
また、後小路先生は、2013年に福岡アジア文化賞を受賞したテッサ・モーリス=スズキの言葉「大きな歴史ではなく小さな歴史を語りたい」を引用しつつ、「東南アジアにおける〈美術〉の誕生について考えるために」、まず、「日本語の〈美術〉は、いつ、どのように誕生したのか」を辿りました。それは、明治5(1872)年、博覧会に〈美術〉を出品する必要性に迫られて、「Kunstgewerbe」というドイツ語の翻訳語として誕生しました。しかし、この〈美術〉の誕生のプロセスは、〈美術でないもの〉の誕生のプロセスでもありました。それは東南アジアの歴史においても同様でした。「東南アジアの〈美術〉形成史について考えることは、〈美術でないもの〉の側から〈美術〉を見直す(=再定義する)こと」と先生は語ります。「〈美術〉(=芸術家による作品)と〈工芸〉(=職人の製品)、あるいは大衆芸術、民族芸術、民俗芸術(=フォーク・アート)などの区分自体を問い直す。そこに、西洋渡来のシステムではない、アジアに固有の美術があるのではないか?」と問いかけます。
同時に、20世紀終盤、1990年代を中心に、世界的に、従来の美術史のあり方の問い直しが行われてきた、と言います。「オリエンタリズム」「フェミニズム/ジェンダー」「制度論」「構造主義」「ポストコロニアリズム」などの思想の成果を導入し、「ニュー・アート・ヒストリー」の動向が隆盛してきた背景を紹介しつつ、「ある作品が誰にとって〈美しい〉ととらえられるのか?」「何が描かれ、何が描かれないのか?」を問い直し、〈美術〉をめぐる隠された権力構造や政治性を見出す試みの意義を語ります。

ここで後小路先生が具体例のひとつとして紹介したのは、1522年に、スペイン艦船隊を率いて、史上初の世界一周をなしとげたとして知られるフェルディナンド・マゼランの物語。マゼラン自身は、1521年、航海半ばで、フィリピンでの「マクタン島の戦い」で命を落としています。伝記作家のシュテファン・ツヴァイクによれば、マゼランに奴隷として仕えていたマレー語圏出身の男性「マラッカのエンリケ」こそが、世界史上はじめてひとりの人間として世界一周をなしとげた人物であると書いています。そして、このように、「ポストコロニアリズムは、コロニアリズム/植民地主義の終わりなき再検証」であると語ります。この言葉は『ポストコロニアリズム』の著書で知られる本橋哲也を引用紹介したものでもあります。本橋はこのように書いています。「『ポスト』という接頭語は、過ぎ去ることなく現在に継続し、行く末に影響する、という時間的な三重の縛り(可能性)を示す概念」「ポストコロニアリズムも過去と現在と未来という三つの視座の連関において考える必要がある」。さらに、サイードの「オリエンタリズム」批判や「日本によるアジアに対する〈オリエンタリズム〉の問題」も言及されました。

つづいて、非西洋圏のアートを扱った代表的なふたつの展覧会について検証しました。ひとつめは、「’Primitivism’ in 20th Century Art: Affinity of the Tribal and the Modern 20世紀美術におけるプリミティヴィズム:部族的なるものとモダンなるものとの親縁性」。1984年、ニューヨーク近代美術館で開催された、ウィリアム・ルービンによる企画展です。主として外見上の類似にもとづいて、モダン・アートとトライバル・アートを併置し、芸術の普遍性を訴える試みであり、近代美術館と民族学博物館が出会う企画としては画期的なものであったことを紹介。同時に、アフリカなど非西欧圏の展示品には作者名や制作年が付与されず、その文脈も無視して造型的側面のみに焦点を当てたことが、植民地主義の再生産として、文化人類学者などから批判されたことを述べました。
もうひとつは、この5年後、1989年にパリのポンピドゥー・センターで、ジャン・ユベール=マルタンの企画により開催された「Magiciens de la Terre  大地の魔術師」展。「西洋と非西洋の区別なく、世界中から100人の同時代作家を選定し、仮面や曼荼羅といったいわゆる民俗『資料』と美術『作品』とを併置して展示しました。西洋化されたモダン・アートは排除され、いわゆる第三世界からのものはフォークアート的なものが出品されました。『資料』と『作品』の分類が暗にはらむ、西欧に根深く残存している植民地主義的差別意識を再検討する契機となったと言えるでしょう」。

そして、これらの背景や歴史を踏まえたうえで、「東南アジアの『美術』の歴史」について、多数の画像とともに、レクチャーがなされました。
まず、「東南アジア」という枠組み自体を問い直すイントロダクションから始まりました。「19世紀の植民地の枠組みが、現在の国家の基盤にある。現在の国家的枠組みだけではわからない差異と同質性がそこには存在します。『東南アジア』という名称は米軍による呼称で、戦前の日本では『南方』あるいは『南洋』と呼んでいました」。
そして、フィリピン、インドネシア、シンガポール(マラヤ)、タイ、ベトナムと、フル・スピードで「美術」の歴史をたどる旅が繰り広げられました。
フィリピンは、長いキリスト教文化の伝統がある唯一の国。比較的早い段階で美術学校が設立され、19世紀には、シモン・フローレスら、フィリピン人の肖像画家が活躍。その後、19世紀末には、フアン・ルナ、フェリックス・イダルゴら、スペインに美術留学し、マドリードのサロンで受賞する画家たちの時代が到来。その後、短い独立期間を経て、アメリカの統治時代に。その時代を代表する画家は、フェルナンド・アモルソロ。感傷的でロマンティックな「フィリピンらしい」田園風景やコケティッシュな女性像を描いて人気を博し、「南国の楽園」としてのフィリピンのイメージをアメリカに普及させました。その後、1920年代からは、ヴィクトリオ・エダデスをはじめとする「13人の現代人たち」と呼ばれる画家たちが、こうした旧態依然としたアカデミズムからの解放を求めて活躍し始めます。エダデス、ガロ・オカンポ、カルロス・フランシスコは、フィリピン近代美術における「3人組」として知られています。
オランダ領東インド(蘭印)では、「麗しの東インド」と呼ばれた風景画が、理想化された熱帯の自然を描き出しました。西洋からやってきた画家たちの眼差しをなぞるようにして、いわば「セルフ・オリエンタリズム」とも言うべき絵画が生産されていたのです。1930年代のジャワを代表する画家スジョヨノは、38年に「インドネシア画家(画師)協会」を結成。「麗しの東インド」からの脱却を求めて、「近代美術宣言」とも言うべき「インドネシアの絵画──現在、そして来たるべき日に」(1939)を記します。「スジョヨノにとっては、『リアリズム』は植民地主義的なお土産物を乗り越えて、自己表現としての『美術』を生み出す基盤だったのではないでしょうか」。アファンディ、アグス・ジャヤ、ドイツ人でバリ島芸術のプロモーションにも尽力したヴァルター・シュピースなどの芸術家の仕事が紹介され、シュピースの影響下で1930年代バリ島に起こった近代美術革命にも言及されました。
シンガポール/マラヤでは、1930年代に、「華人美術研究会」が結成され、華人たちが自分たちのアイデンティティを「南洋」に求めた運動が起きました。「『南洋美術の父』と呼ばれる林学大(リン・ハクタイ)は、シンガポールに赴き、そこに固有の美術を創設しようと決意し、38年、南洋美術専科学校を開校しました。『西洋』でも『東洋』でもない『南洋美術』を創設しようと訴えたのです」。1957年のマラヤ連邦独立、59年のシンガポール独立(英連邦内自治国化)、63年のマレーシア連邦結成(マラヤ連邦、シンガポール、北ボルネオ)、同年のシンガポール完全独立宣言、65年のシンガポール、マレーシア連邦から分離独立というように、国全体がそのアイデンティティを求めて揺れ動いていた時代でした。
一方、タイは、植民地経験のない国として、政府が美術学校をつくり、美術家を養成し、お雇い西洋人の教師を招き、といった、「上からの近代化」がなされていました。近代美術前史の巨匠、クルワ・イン・コンらの作品が紹介されました。

そして、仏領インドシナでは、インドシナ美術学校が設立され、グエン・ファン・チャン、ト・ゴック・ヴァンら、多彩な画家たちが活動していました。「現在ではベトナムの伝統工芸と思われている絹絵と漆絵ですが、フランス人の教師が輸出品として制作をサポートしてスタートした『つくられた伝統』なのです」。

講義の最後は、「日本軍政と東南アジアの美術」について。「ジャワでは、プロパガンダのための組織である啓民文化指導所を日本軍が設立し、それがインドネシアで初の美術学校の役割を果たしました。情報宣伝工作を行い、民衆の心を操作するために、グラフ雑誌『新ジャワ』が刊行されたりもしました」「東南アジア美術史研究を進めるうえで、この日本軍政下の時代にどのような動向が見られたのかは、たいへん重要な問題です」。

授業を補足する参考資料として、後小路先生が企画を手がけた「東南アジア─近代美術の誕生」展(福岡市美術館ほか巡回、1997)のカタログ、そして、2015年にシンガポールに創設された「ナショナル・ギャラリー・シンガポール National Gallery Singapore: Southeast Asian Art Museum」も紹介されました。後者は、「延べ床面積60,000㎡という、東南アジアの近代を対象にした世界最大の巨大美術館」であり、今後の東南アジア美術史研究においても、きわめて重要な役割を果たすだろうことがうかがえました。以上、90分間のひじょうに濃密な特別講義となりました。

文=川出絵里[東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科助教]

Profile
後小路雅弘 Masahiro USHIROSHOJI

 

美術史家。九州大学大学院人文科学研究院教授。1954年福岡県生まれ。九州大学文学部卒業後、78年、福岡市美術館準備室学芸員となり、世界初のアジア現代美術展といわれる「アジア美術」展(第1回〜第4回、1980〜1994)をはじめ、「美術前線北上中──東南アジアのニューアート」展(1992)、「東南アジア─近代美術の誕生」展(1997)など、アジアの近現代美術の紹介に取り組む。1999年、学芸課長として福岡アジア美術館の設立に寄与し、開館記念展「第1回福岡アジア美術トリエンナーレ1999」を企画。2002年より現職。アジアの近現代美術を研究するかたわら、「モンゴル近代絵画」展(2002)、「アジアのキュビスム」展(2005)、「ベトナム近代絵画」展(2005)などのキュレーションに関わる。主な共著書に、『「美術」概念の再構築(アップデイト)』(国際シンポジウム「日本における『美術』概念の再構築」記録集編集委員会編、ブリュッケ=刊、星雲社=発売、2017)、『アジアの美術──福岡アジア美術館のコレクションとその活動』(増補改訂版、美術出版社、2002)、『近代アジアの美術におけるモダニズムの受容』(九州大学、科学研究費補助金基盤研究(C)(2)研究成果報告書 平成16-18年度、2007)など。最近の論文に、「アジア美術におけるゴーギャン的なるもの」(『民族芸術』31号、2015)、「日本軍政と東南アジアの美術」(『哲学年報』九州大学、2013)などがある。