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Special Lecture Report
沢山遼

「人新世におけるアート」は可能か?:
ニコラ・ブリオー、あるいはグレアム・ハーマンの「無関係性の美学」
──特別講演会「グローバル時代の芸術文化概論:21世紀の関係性のランドスケープ:人間的そして非人間的領域の狭間におけるアート」を聴いて

東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科アートプロデュース専攻主催特別講演会

2018年1月8日開催
会場=東京藝術大学 上野キャンパス 美術学部 中央棟 第一講義室

2018年1月8日、東京・上野の東京藝術大学にて、フランス人キュレーター/批評家のニコラ・ブリオー氏(以下敬称略)の講義が行われた。本稿はその講義のレポートである。当日、約200人近くを収容する教室は多くの聴講者で溢れ、講義を中継する第二会場として設けられた教室からも人が溢れるほどの人気だった。知られるようにブリオーは『関係性の美学』(1998)によって90年代以降の欧米美術で広い知名度を獲得してきた人物である。その活動は、狭い意味でのキュレーションにとどまらず、『ポスト・プロダクション』(2002)『ラディカント』(2009)などの書物を通じた継続的な執筆活動においても影響力を獲得してきた。本講義はブリオーの日本では初となる本格的な講義となったが、日本においては、いまだ一冊の書物も翻訳されておらず、その名前だけが知られるという特殊な状況が続いてきた。当日の盛況は、そうした日本国内での知名度と欠乏感の高さによってもたらされたものでもあるだろう。だが、筆者の正直な感想を告白すれば、当日の聴衆の期待と、ブリオーの講義内容には、大きな隔たりがあったような気がしてならない。

 

「21世紀の関係性のランドスケープ:人間的そして非人間的領域の狭間におけるアート」と題されたブリオーの講義は、人類学的転回やアクターネットワーク理論、思弁的実在論などの現代思想の潮流と、近年彼がさまざまな場所で発表してきた考えとを接続しつつ要約するものであり、それなりに現代思想の潮流に触れてきた(日本在住の)われわれからしてみれば、ブリオーの講義の基本図式自体は既知の問題提起によって占められていたように思われる(同じ感想は、ほかの数人の聴講者からも聞かれた)。技術的かつ現実的な制約もあっただろう。講義は通訳を介して都度中断を挟みながら述べられるものであり、またその聴衆としてはあくまで学生が想定されていためか、実質的な講義内容は、多分に思弁的な図解の提示に終始した感がある。現代思想を安易に美術に接続することの危険も感じた。だが、もし美術が思想の反映にすぎないとすれば、わざわざ作品などつくる必要はない。当日つめかけた聴衆はなにを思っただろうか?

 

しかし、その内容に「思想家としてのキュレーター」(星野太)としての独自性が見られなかったわけではない。とりわけそれは、98年に発表された「関係性の美学」における「関係」概念の「修正」という側面に明瞭に示されていたように思う。が、本講義でそのような理論的展開が充分に展開されたとは言い難い。そうした理由もあり、本レポートでは、「関係性」の鋳直しという側面からブリオーの講義内容をまとめつつ、思弁的実在論との接点などを含めて、いくつかの補助線を引いておくことにしたい。

ブリオーは、ニュージーランドの「ファンガヌイ(Whanganui)」と呼ばれる川の紹介から講義をはじめた。この川は、マオリの人々とニュージーランド政府との闘いの結果、2017年に「生きた」存在として政府に認められるに至った。つまり、川は人間ではないにもかかわらず、自らの立場においてさまざまな主張をなしうる、一個の人格と権利をもった主体として認められることになったのである。また、2013年には、ロボットやインターネットのアルゴリズムの数が人間の総数を超えた。このことは、金融取引などの現場において、近い将来、人間存在そのものがテクノロジーによって追いやられる可能性を示す。この二つの事象が示すのは、いまや、狭義の「人間」そのものの再定義が図られなければならないということである、とブリオーは述べる。

 

ブリオーは、近年日本でもよく知られるようになった「人新世」の概念に言及する。人新世とは、ここ10年ほどのあいだに提唱されるようになった新たな地質学的年代の区分のことである。多くの研究者によって、1950年代以降の地球がこの新たな地質年代に相当するとされる。1950年代以降の急速かつ地球規模の資本主義社会の進展によって、人類の活動自体が、気候変動などの地球環境に深刻な影響を及ぼすことになった。そしていま、地球の変化は人間がコントロールすることが不可能な段階にまで進んでいる。人新世においては、人と自然環境との区分けは機能せず、よって、自然科学と人文学との従来的な区分けも意味をなさないものとなる。ところでこの人新世の概念は、近年、自然科学のみならず、思弁的実在論(SR)やオブジェクト志向存在論(OOO)と呼ばれる新しい哲学的潮流とも接点をもちながら議論されている。ブリオーも指摘するように、人新世において従来の人間的区分である「文化」と「自然」との関係はかぎりなく交錯したものになる。ブリオーは、人新世において、人間は非人間的なあらゆるものとあらためて「関係」することになり、それらとの関係を再交渉(re-negociate)する局面にさしかかっているのだと言う。ブリオーによれば、人新世とは、人間がこの惑星において共存しなければならない多様な存在との新たな関係性が示される、新たなパラメータを示している。ブリオーが今回の講義で人間のみならず「非人間的領域」を掲げるのは、このような状況において、生物、鉱物、植物などの非人間的なものが人間と等しい主体性を獲得する、新たなエージェントとしてわれわれの前に参入してきたことを意味する。1990年代に自分が執筆したのは、人間と人間相互の関係(inter human relationship)であった、とブリオーは回想していたが、現在では、それが人間と非人間との関係にまで拡張可能であるということだろう。人新世は、このような状況における「新たなる関係性の風景(new relational landscape)」を開示している、とブリオーは言う。

 

こうした従来的区分の無効性において、自然と文化のみならず、言葉をもつもの(人間)と言葉を持たないもの(自然)、文明と非文明、ジェンダーなどのさまざまな分類のあり方が不安定に流動することになる。のみならずブリオーは、絵画、彫刻、ヴィデオなどのメディウムも将来的に「破滅」するとさえ述べる。文字をもたないものと文字をもつものの区分が消滅するとともに、その両者が同格の主体となりうるという点について、ブリオーはミシェル・セールの思想を援用していたが、ブリオーが人新世において導入しようとする人間と非人間のエージェントとしての同格性には、セールのみならず、人間以外のものにエージェンシー(行為主体性)を認め、それらアクターとのネットワーク(関係)において人間的営為を捉えなおすブルーノ・ラトゥールのアクターネットワーク理論との共鳴も示されているだろう。人間は世界における中心的な座からの撤退を余儀なくされるのであり、この人間の脱中心化の過程において、人間と非人間の協働(co-activity)が見られる。以上の世界においてアーティストという主体に与えられるのは、非人間を含む多様な主体との関係を構築する外交官=翻訳者としての立場であり、その立場においての人類学的な視座の獲得の必要性である、とブリオーは言う。

 

ブリオーはこのような文脈から『ラディカント』でも援用していた社会学者ジグムント・バウマンの『リキッド・モダニティ』(2000)に触れる。人間的な文化領域の特権性の消滅がもたらすのは、さまざまな価値や役割の転倒であり、流動化である。こうした流動性のもとではモノや情報だけではなく、人間主体それ自体も多様なネットワークのなかで非固定的なものになり、自らの存在論的位相を変状・変容させることになる(そのネガティヴな帰結のひとつとして難民問題の顕在化がある)。そこでブリオーは、アーティストはこの流動する世界に対していかなる活動によって応答することができるのかを問う。二人のアーティストの名が挙げられる。ガブリエル・オロツコとフランシス・アリスである。両者はともに都市を散策・遊歩する過程のなかで形成された行為や事物を作品として発表している。オロツコが「Spontaneous Sculptures」と呼び、アリスが「Walk」と呼ぶこれらの実践においては、不確かさ=流動性にポジティヴな性格が与えられている。

 

続いて講義では、文化と自然との区分の乗り越えを企図するアーティストとして、二人のアーティストの作品が紹介された。マーク・リッキーの《The Universal Addressability of Dump Things》(2013)とピエール・ユイグがドクメンタ13で発表した《無題》(2012)である。人間の身体パーツの大替物である義肢や義足がインスタレーションとして散在するリッキーの作品に関してブリオーは、オブジェクト志向存在論の影響を指摘しつつ、オブジェクトと人間の関係が等価になるとともに、意識をもたないオブジェクト同士のコミュニケーションが前景化されていると述べる。また、ユイグは《無題》において屋外の環境にさまざまな植物を植栽し、生きた犬や蜂の巣が頭に乗った女性ヌード像などを配置することで仮想的なビオトープを形成した(ブリオーはこれを生態系と形容していた)。そこで見られるのは、主体/客体の位置関係の見直しであり、非人間的なエージェントの導入であるとブリオーは主張する。

 

以上のような作品群を紹介したうえで、ブリオーは今度はかつてが自身が提唱したフレーズ「オルタモダン」を再導入しつつ、新しい世界を展望する、真にグローバルなモダニティの可能性があるのではないか、と述べる。それは、ひとつの文化に依存するのではなく、複数の文化の対話を基礎としたモダニティであり、このアルタモダニティにおいては、グローバル規模におけるクレオール化が進行するだろうとブリオーは診断する。それは、多文化主義における固有性の尊重とは逆の、ありとあらゆる要素が融合した、真のアイデンティティの探求である。アーティストが形象化するのは、来るべき新たなアイデンティティの描像であり、われわれ皆がそれに取り組むことによって真の21世紀のランドスケープが到来するだろう。そう述べたところでブリオーの講義は締めくくられた。

 

以上のように、ブリオーの講義は、基本的に未来志向に覆われているのだが、それを支えているのは、「芸術」ないし「アーティスト」という存在への過剰なまでの期待であろう。外交官=翻訳家としてのアーティストは、人新世以後の世界において人間と非人間の関係を多様に媒介するだけではなく(来るべき未来が異種交配的なものであるとすれば)そこで異質なものの出会いを取り持つ力能を備えたアーティストだけが、未来のわれわれのアイデンティティを描像することが可能であるーーこうした思想によって明らかになるのは、ブリオーの言説を支えるものが、依然として、維持され、かつ修正された「関係」概念であるという事実にほかならない。

 

本講義に先立って2015年にブリオーはイスラエル、テルアビブのCCA(The Center for Contemporary Art)において「人新世におけるアート」と題した講演を行なっており(youtubeで視聴可能)、そこで彼自身、20年前に執筆した「関係性の美学」が「回帰」していることを認めている(1)。この講演においてブリオーは、いかなる芸術にも「出会い(encounter)」の次元が介在していると述べている。芸術とは、その出会いが行為や事物へと変形されたものなのだ。しかし、その出会いは、主体の積極的な関与によるものなのではなく、逆に、あらゆるオブジェクトがわれわれに自らを提示する(expose)することにおいて可能になる。関係概念を非人間的なものへと拡張するブリオーにとって人新世という概念が重要なのは、非人間的な対象からの特定の主体への「呼びかけ」がなされる点においてであると思われる。

 

ブリオーはこの文脈でジャック・ラカンの「まなざし(gaze)」の理論にも触れている。ラカンによれば、主体はすでに呼びかけられる存在であり、主体が対象をまなざす以前に主体は対象によって包囲され、まなざされている。見ることは見られることであるというラカンのまなざしの理論が、人新世における拡張された主体と客体の関係に縫合されるのである。ブリオーはそこで「関係」が主体の内部にも対象の内部にも存在せず、どのような特定の主体にも帰属し得ないものであると言う。常識的に考えれば、関係は(モノでも人間でも良いが)複数のエージェント間の「間」を前提とするはずだ。しかしここで見られるのは、関係概念をあらゆるエージェントに先立つ外的なものとして定立しようとするブリオーの特異な思考である。そこで関係概念は、主体に先行して外在的に実在する実体として現前化されているようにさえ感じられる。ブリオーの議論は、結果として、特定のアートオブジェクトではなく、「関係」こそがオブジェクティヴなアートであり、同時にアートとは、人間と人間外的なものが諸関係を結ぶための特権的な手段であるという認識にさえ接近しているように思われる。

 

ところで、このテルアビブ講演でブリオーは、思弁的実在論の代表的な論者のひとりであるカンタン・メイヤスーの議論に触れている。メイヤスーによれば、従来の哲学は、実在するモノにアクセスすることを素朴実在論として退け続けてきた。とりわけカント以降の哲学において、「物自体」は直接経験不可能であるとされる。対象とは、言語(思考)によって世界を把握する人間によって現象として産出されたものにほかならず、実在するモノに直接アクセスすることは不可能である。このような考えは、ラカンらのポスト構造主義にまで及んでいる。メイヤスーは人間の思考と世界の「関係」のなかでのみ対象が捉えられるとする立場を「相関主義(co-relationosm)」と呼び批判するとともに、その外側に出ることを呼びかけている。「語りえぬものについては沈黙しなくてはならない」というヴィトゲンシュタインは、そのような相関主義のもっとも強力なバージョンであるが、メイヤスーはその「語りえぬ」言語や思考の「外」に出ることを志向するわけである。

 

ブリオーがメイヤスーについて言及するのは、メイヤスーの「相関主義」と自身の「関係性の美学」がともに関係概念を包含するためであろう。ただし、前者において「関係」は否定的なものであり、後者においては肯定的なものである。とすれば「関係性の美学」はいまや、哲学的な文脈からも批判されうるものになったということだ。さらに言えば、ブリオーとメイヤスーの相違は、「関係」概念のみならず、人間という単位の有無の違いとなって現れる。メイヤスーは、実在に到達するための道筋として、人間によって思考される以前にも世界は存在していたこと、人間以前の世界を問題化する。そこで問題とされる実在とは、人間の起源以前の地球や地球誕生以前の宇宙、すなわち、われわれが存在しようがしまいが関係のない、人間存在にいっさい関わりのない世界における実在である。メイヤスーはこの「祖先以前的」世界を哲学的問題として先鋭化する。

 

ブリオーの関係性の美学はしばしば「人間中心主義的」であるとして批判されてきた。それは、こうした思想の台頭と無関係ではない。しかしブリオーは、芸術という観点にとどまる限り、再び人間中心主義に陥ることなく芸術を人間存在に引き寄せることが重要であり、いかなる芸術実践も人間(アーティスト)という出発点なしには生じえない、と述べることでその問題に応答している。このような点に、人間の脱中心化や非人間的なものへの接近を唱えるブリオーの思弁的実在論やオブジェクト志向存在論とのアンヴィヴァレントな関係が浮き彫りになるだろう。彼が挙げるリッキーやユイグの作品には、人体パーツやヌード 像などの人間イメージが介在しており、そしてそもそもユイグが「関係性の美学」の出発点にいた作家のひとりでもあったことを思えば、そこに、人間内的な「関係」から人間外的な「関係」への今日的なアップデートを図るブリオーの微妙な思想的戦略を見ることは可能である。

 

そもそも、近年の美術の世界でのオブジェクト志向存在論の流行は、従来の芸術的メディウムに消極的な価値しか認めなかった関係性の美学への反動として捉えられることが多いことに注意しておく必要があるだろう。言い換えれば昨今のオブジェクト志向存在論の流行は、関係性の美学や制度批評の流行によって20年来等閑視されてきた物質概念の奪還という様相を呈しているのである。そこでブリオーがいまいちど関係概念を修正しようとしているとすれば、その企図は具体的に下記のようなものになるだろう。すなわち、ブリオーには、関係性の美学への反動による思弁的実在論の美術界での流行によって、そこから人間という単位が脱落し、疎外論的状況をまねくことへの懸念がある。そのためにこそ--再度彼の「関係性の美学」を人間と非人間の関係として鋳直すために--思弁的実在論の留保つきの参照が行われるのである。

 

しかしながら、オブジェクト志向存在論においては、「関係」こそまっさきに切断されるべきものである。とりわけ近年の実在論者のなかで、関係概念からの脱却の姿勢をもっとも激しく打ち出しているのは、オブジェクト志向存在論を標榜するグレアム・ハーマンの著述である。ハーマンはメイヤスーの相関主義批判を引き受けつつ、従来の哲学において、人間に関係する限りにおいてオブジェクトが肯定されてきたという点を強く批判している。ハーマンはそれに対し、オブジェクトの人間からの切り離しを行う。オブジェクトは個体としてわれわれから自立し、撤退し、引きこもっている。オブジェクトは、人間なしで、人間とは無関係に実在する。さらにハーマンは、オブジェクトは人間と関係しないばかりか、オブジェクト相互も違いに触れ合うことなく孤立しているのであり、宇宙のなかでは、ほかのあらゆるものといっさい関係することのないオブジェクトすら存在するだろうと言う。ハーマンはそれを「眠れるオブジェクト」「夢見るオブジェクト」と呼ぶ(2)。すなわちハーマンにとってオブジェクトとは徹底して隔絶的なものである。オブジェクトは人間なし、関係なしで自らを他から隠退する。これはブリオーが示す、人新世においてはあらゆるオブジェクトが外的存在者との関係に向けて自らを「提示」するという立場と180度異なるものであると言ってよい。ゆえに、ブリオー/ハーマンにとってそれは、美学上の争点となりうる問題である。

 

ハーマンは『アートレビュー』2014年9月号に「関係なしのアート(Art Without Relations)」と題されたエッセイを寄稿しており、そこで自らの考えを「無関係性の美学(Nonrelational Eesthetics)」と定義している(3)。ただし、ハーマンはそのタイトルについて、ブリオーを論難する目的でつけたものではないと断っているが。この短いエッセイでハーマンは、クレメント・グリーンバーグの批評が物体と主体の葛藤を前景化したことをハイデガーの仕事と併行するものとして評価し、また、マイケル・フリードのミニマリズム(リテラリズム)批判について、オブジェクトの外観の効果、演劇的な見せかけから芸術作品を切り離し自立させようとする試みとして評価する一方、そこでなおオブジェクトを経験する主体としての人間が残存していると指摘している。そこでハーマンが提唱するのが、「無関係性の美学」つまり、人間なし、関係なしの美学であるというわけである。

 

今年ハーマンは『芸術とオブジェクト』と題された書物を刊行予定であると聞く。彼の「無関係性の美学」を踏まえれば、おそらくその著作では、人間なしの芸術についての思考が展開されることになると思われる。より広い見地に立てば、AIやロボティクスに関する知見などの進展に従って、芸術実践に人間が関与するのか否かという問題が、今後激しい美学的論争をもたらすことは、ますます避けられないものになるはずだ。人間ありの美学と人間なしの美学。それはそのまま、関係性の美学と無関係性の美学とも言い換えられる。関係性の美学は、そのような限定的な局面において、「回帰」するだろう。そのような美学的抗争が今後より一層明らかなものとなったとき、ブリオーは今後どのような応答を行うことになるのだろうか。しかし、それはいまだわれわれには知らされてない未来の話である。

 

(1)https://www.youtube.com/watch?v=TgBQUE-ZaY4&t=3205s

(2)グレアム・ハーマン「オブジェクトへの道」飯盛元章訳『現代思想』2018年1月号。

(3)Graham Harman: Art Without Relations(https://artreview.com/features/september_2014_graham_harman_relations

文=沢山遼[美術批評]

写真=中川周