In Depth

Special Lecture Report
黒沢聖覇

「近代」の空から着地できるか?
ブルーノ・ラトゥール教授の講義から

1. はじめに

本論考は、2016年7月15日に東京芸術大学大学院国際芸術創造研究科にて、開設科目「グローバル時代の芸術文化概論」の一環として行われた、科学人類学者であり社会学者であるブルーノ・ラトゥール教授による公開講義と、その前後に行われた本人による関連講義をもとにしている。彼は、本研究科の特徴をふまえ、科学人類学及び社会学理論一般を説明するような通常のレクチャーではなく、これまで自身が企画してきた展覧会実践(キュレーション)について焦点をあてながら、あくまで人類学者という立ち位置で講義された。ゆえに本論考は、主に本年度開催の展覧会「Reset Modernity!」展についての彼の講義を報告することを目的としている。また、本論考のおわりには結びとして日本の近代化の特殊な事例を考察しながら、現代を取り巻く近代の問題に対してどのような態度がありうるのかを検討する。

2. Three Thought Exhibitions

「Thought Exhibition」は、ラトゥールの提唱する展覧会の方法論である。この言葉は、科学的手法としての「Thought Experiment(思考実験)」をもとにしているという。つまり、現実にはまだ存在していない状況を想像し、これから起こるであろうという虚構の状況下で思考的な実験を行うことを指している。彼は、展覧会もまた科学的文脈にある「実験」と同じ側面を持つと考えていることから、「Thought Exhibition」とはこの科学的な実験の手法を、展覧会という形式に落とし込んだものであると考えていいだろう。この手法はあくまでも「fiction 虚構」であることが強調されるが、その虚構の実験を、展覧会という形式をとおして経験することは有意義である。そして、ドイツのカールスルーエにある、第二次世界大戦期の武器製造工場であった建物を利用した、芸術・メディアのミュージアム兼研究所で、世界的にも稀有な施設「ZKM」で彼が企画した3つの「Thought Exhibition」を紹介する。

まず彼がいちばん初めに手がけた展覧会は、「イコノクラッシュ Iconoclash: Beyond the Image-Wars in Science, Religion and Art」(2002年)である。この展覧会は主に西洋的伝統の中における「iconoclasm 偶像破壊」それ自体を扱っている。この展覧会では、①とくに20世紀以降のモダンアートにおけるiconoclasm、②形式主義にまつわる科学的文脈におけるiconoclasm、そしてもちろん③宗教においてのiconoclasmの3つのiconoclasmにおけるイメージの歴史と関係性を問う。本展は「Iconoclastic 偶像破壊的」な作品やイメージを展示することが目的なのではなく、西洋的伝統・思考の中に埋め込まれたiconoclasmのジェスチャーそれ自体を問いなおすことを目指している。「Iconoclash」という造語をつくりあげることで、西洋の伝統的思考の中には、iconclasmを肯定し進めようとする一方で、iconoclasmそのものは破壊する対象としてのイメージがない限り達成されえないというダブル・バインドがあることを浮き彫りにしようとする。また、レーニン像が撤去され、クレーン車で像が宙吊りになっているイメージなどを参照しながら、「iconoclastic gesture 偶像破壊的なみぶり」は西洋の政治史においても重要なものであったことを指摘している。

ふたつ目の展覧会は「モノを公にする Making Things Public: Atmosphere of Democracy」(2005年)である。この展覧会は、議会などの公的で政治的な領域の「外側」にある政治的判断を集める方法がどの程度あるのか、という問いに挑戦している。幾度の議論を経て、結果として30の研究者を呼び、若いアーティストと協働しながら、どのようにしてこの問いを表象する方法を発明できるのか、ということを考える、ある種のフェアのような展覧会となった。この展覧会は、あらゆる判断が創出されるさまざまな個別の集合体をどのようにすれば統合できるのか、という問いを考察することを目指している。たとえば、「自然」や「市場」もまた政治的な集合体である側面を持っていて、スペースシャトルのような高度な技術的産物もまた、科学技術、法、経済や市場、宗教などさまざまな集合体における政治的決断と、複雑な制度的集合の組み合わせによるものである。つまりこの展覧会は、ラトゥール自身も述べているように、彼の提唱するアクターネットワーク理論[*1]をある意味で具現化するような展覧会でもあるのである。

そして3つ目の展覧会「近代性をリセットする! Reset Modernity!」は、本年度(2016年)に開催された最新の展覧会である。これは彼の企画した展覧会のなかでも、もっとも公共性と相互作用するようにつくられていると同時に、彼自身の長年の研究による主張であり、また主著『虚構の近代』(原著:1993年初版、邦訳版:2008年初版)[*2]において述べられている、西洋的近代/モダンという虚構をリセットするための展覧会であると言えるだろう。ここでいう”Reset”とは、一度も近代/モダンでありえなかった人々(Those who Have Never Been Modern)が、自身の思考や知覚・感性をとおして得る世界の経験を、「近代」という大きなプロジェクトの枠組みの中にはめ込まなければならない状況を比喩的に捉え直し、記録・登録し直すことである。つまりこの展覧会は、「近代」という虚構の中にあって、科学、技術、政治、経済、宗教などのはざまで彷徨っている私たちの曖昧なシグナルを読み取り直し、「近代 Modern」において狂ってしまったコンパスを初期化することを目指していると言えるだろう。


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「近代性をリセットする!」展展覧会会場風景
Reset Modernity!, ZKM 2016 © ZKM | Center for Art and Media Photo: Michael M. Roth
http://zkm.de/en/event/2016/04/globale-reset-modernity

この展覧会では、6つのリセットの手順(procedure)を設定し、そうした装置をとおして鑑賞者は「近代」の中で狂ってしまった方向性を一度初期化するように仕向けられる。その手助けとして、鑑賞者は「フィールドブック」[*3]という、持ち運びしやすいサイズのノートを渡され、それを読みながら展覧会を進むことになる。このフィールドブックには展示されている作品の説明だけでなく、キュレーターがその作品を特別に選択した理由や、鑑賞者が近代をリセットする過程を自らの思考をとおして考えられるような議論の問いなどが載せられているため、展覧会そのものが鑑賞者と相互作用するように促進されることになる。

また、この展覧会の内容のひとつとして、デューラーからジェフ・ウォールに至るまで、西洋的な表象(representation)においては、対象/オブジェクトはつねに「(西洋的)まなざし gaze」を前提として存立してきたことが示されている。鑑賞者はこのプロセスをとおし、西洋的なまなざしとそしてそのまなざしにアイデンティティを持つ西洋的な「物/対象 object」のあり方を見つめなおすことになるのである。


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ジェフ・ウォール 《ブリティッシュ・コロンビア大学解剖学部ラボラトリーにて標本からドローイングするエイドリアン・ウォーカー、アーティスト、ヴァンクーバ—》 1992
From Latour, B., et al. (2016), Reset MODERNITY!, Center for Art and Medeia Karlsruhe, Germany, p. 98.

そして、本展後半の手順では、「観察者」と「自然」を切り離す作用を持った西洋における「崇高」の表象を検討するための展示や、「土 (soil)」を写した作品を展示しながら、人類が「(西洋)近代」という枠組みとはまったく質の違った「Land(大地)」の上に立っていることを身体的に経験できる展示がなされている。これは地質学用語として登場し近年激しく議論されている用語である「人新世 Anthropocene」への、ラトゥールの強い関心を反映していると言えるだろう。


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「近代性をリセットする!」展展示後半部の展示風景。左手の壁はタシタ・ディーンの作品、右手はソフィ・リステリュベールの作品。後景に見えるのは、「ミュージアム・オブ・オイル」の作品。
© Jonas Zilius http://www.laviedesidees.fr/Enraciner-la-modernite.html

これまで、こうした3つの「Though Exhibition」を提示しながらこの手法の可能性を示してきたが、ラトゥールはまたこの手法における問題点をも提示してレクチャーを終える。問題点のひとつ目として、「Thought Exhibition」は、いわゆる美術展ではないため、美学・美術史的文脈における多くの役割を果たせない。しかしこうした特異な点は、逆にアーティストにモチベーションを与えた側面もあったと彼は指摘している。ふたつ目として、この手法はあくまでも「フィクション」をとおして行われているという点である。つまり具体的かつ直接的に「近代」の問題を解決しようとする、また解決できるアプローチではないという原理的な問題があるのである。そして3つ目として、この手法と教育的側面の関係の問題がある。ほとんどの鑑賞者はこれらの展覧会を難解であると指摘しており、また「近代」というレジームを理解している一般の鑑賞者はほとんどいないことから、こうした展覧会が持っている教育的側面は依然として課題である。しかしこうした課題を考慮しても、本職ではないながら研究者としてこの3つの「Thought Exhibition」を実現したラトゥールの功績の大きさに疑いはないだろう。

3. おわりに

以上が、3つの展覧会についてのラトゥールの講義の概要である。こうした彼の試みはすべて、「近代」が産んださまざまな問題がもはや制御不可能に思える昨今の状況の中で、「近代」というプロジェクトそのものを諦めずに問い直し続けるためのものだろう。たとえば、関連講義の中で彼は近代の夢のプロジェクトとしての「グローブ Globe」は失敗し、その反動として「昔からの土地 Land of Old」 に向かおうとする動きの中で、「地球それ自体としてのガイア Gaia」は軽視され続けていると指摘した。このことは、加速していくグローバル資本主義と、それに飲まれながら抵抗を目論もうとするローカル(Land of Old)という、グローバル/ローカルという二項対立の限界をも示しているだろう。近年のヨーロッパにおけるテロ活動やISISなどは、「グローブ Globe」を目指した西洋近代の啓蒙の夢と、そしてミクロ的なローカルを救い守ろうとする個々の、その対立の間に生まれたキメラ的な存在ではないだろうか。つまり彼の「ハイブリッド」の議論[*4]を借りて言えば、「(西洋)近代」という壮大なプロジェクトの矛盾の中で生まれた「ハイブリッド・モンスター」たちは、自身の立つアイデンティティの地盤そのものを探し続けているのだ。ラトゥールは複数の講義をとおして、同じ質問を繰り返す。それは、「Where do we land? 私たちはどこに着地するのか?」という問いである。これは言い換えれば、「近代という虚構の空から、私たちは着地することができるのか?」という問いでもあるだろう。

こうした状況の中で、日本はひとつの特殊な立場を保持していると言える。なぜなら、日本が「革命」によってではなく「復古」という形式によって、近代化を成しえたとされるからである。レヴィ=ストロースが指摘するように、日本の近代化は、神話的建国物語と近代国家としての歴史性の間の連続性が切断されることなく成され、またそれによって伝統的な価値観と科学技術が短期間でもたらした急速な変革とのはざまである種の均衡を保ってきた[*5]。レヴィ=ストロースの解釈が断片的であり、日本に対する多少の憧憬を含んでいることは否めないが、少なくとも日本の近代化の過程が西洋や他のアジア諸国とも異なった、特異な構造的変容を経たことは確かである。日本の近代化とはつまり、伝統的過去に根ざしたアニミズム的思考に畏敬を抱き続けながら、科学技術の革新を進めるというような、両極端、正反対のものを隣り合わせにしつつも独自の創作と借用をしていく[*6]という、ハイブリッドなものとの強い親和性を持った独特の文化に根ざしている。そうした意味では、ラトゥールの述べている文脈とは別の意味で、日本的近代においては、「復古」という方法論を用いたその成立からしてすでに、近代化の構造それ自体が「ハイブリッド」であったのだ。たとえば、自然に即する日本的な伝統的精神を示そうとした「プライマル・スピリット」展(1990年)と、そうしたステレオタイプに抵抗し、自然に相反する態度を取る日本のアートを示そうとした「アゲインスト・ネイチャー」展(1989年)という、対立するふたつの現代美術の展覧会が短期間の内に提示されたように、両極端を揺れ動くハイブリッド的な日本の文化・精神的性質は、現代美術の文脈にも見出すことができる[*7]。本論考ではこれ以上深入りはできないが、異質のハイブリッド的な文化をつねに更新してきた背景を持ちながら、自らのアイデンティティをも保ち続けてきた日本的な「着地 landing」の技術は、ラトゥールの述べるような「近代」の問題に対するアプローチのひとつの参照点として、われわれ自身も含めてさらに深く検討していく必要があることは確かである。

文=黒沢聖覇[東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科修士課程]


*1──ラトゥールが同僚のミッシェル・カロンやジョン・ローとともに提唱した新たな社会理論。『虚構の近代』の訳者である川村の解説によれば、この理論は、近代をとりまく多くの二元論(物質と精神、自然と社会、西洋と非西洋、現在と過去など)からの脱却を目指し、主体の脱中心化を図りながら、人間と非人間(モノ)をエージェンシーという点で同位のアクターとして取り扱うものである。(ブルーノ・ラトゥール著、川村久美子訳『虚構の近代 ―― 科学人類学は警告する』新評論、2008年、p.258)
*2──同前
*3──「近代性をリセットする! Reset Modernity!」展公式サイトで、「フィールドブック」は閲覧可能。http://zkm.de/en/event/2016/04/globale-reset-modernity
*4──ブルーノ・ラトゥール著、川村久美子訳、前掲書、pp.9-26を参照。ラトゥールは「ハイブリッドの存在を公式に認めることで怪物の増殖を遅らせ、生産を制御し、発展方向を変えることが出来る」(p.26)と述べている。
*5──クロード・レヴィ=ストロース著、川田順造訳『月の裏側 ―― 日本文化への視角』中央公論新社、2014年、pp.123-129。「知られざる東京」を参照。
*6──同前、pp.11-42、「世界における日本文化の位置」を参照。
*7──光山清子著『海をわたる日本現代美術──欧米における展覧会史1945-1995』勁草書房、2009年、pp.180-226を参照。